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永代の京
〜八幡市編〜

石清水八幡宮
いわしみずはちまんぐう

男山山中に出づる清泉を祀っていたものが始まり。貞観元年、奈良の大安寺の僧行教が豊前国宇佐八幡宮に参詣した際、八幡神より「吾れ深く汝が修善に感応す。敢えて忍忘する可からず。我すべからず都近くに移座し国家を鎮護せん」との託宣を受けました。京へ戻った行教は、先ず大安寺領であった山崎にお社を作ろうとしましたが、再び八幡神が現れ男山へとの託宣を受け、男山の頂に勧請したのだとか。翌年、木工寮権允橘良基は清和天皇の命を受け六宇の宝殿を造営。「八幡造り」と呼ばれる独特な社殿となっています。現在のものは寛永10年に再建されたものです。以後伊勢神宮に次いで第二の宗廟と崇められ、また南西の鬼門を護る王城鎮護の社として現在に至ります。源氏の氏神でもあります。勅使社(勅使参向の社)でもあり、石清水祭は賀茂祭(葵祭)・春日大社(奈良)の春日祭と共に三大勅祭の一つ。また宇佐神宮(大分)・筥崎宮(福岡 *鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮をあてる説も)と共に日本三大八幡宮の一つでもあります。明治初年には官幣大社に列せられ男山八幡宮と改称。後、大正7年に石清水八幡宮と改めました。厄除けのお社として崇敬されています。ケーブルでも行く事が出来ます。

■頓宮(殿)とんぐうでん
石清水八幡宮の一の鳥居の傍にあります。山上の本殿(上院)に対し、麓は下院(
げいん、または宿院しゅくいん)と呼ばれています。慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いの際に焼失、後再建。昭和13年に山上の南総門が新築されたのに伴い、旧南総門が頓宮南門として移築されています。
■高良神社こうらじんじゃ 摂社
こちらも下院にあたります。貞観3年建立され、古くは「河原
カワラ、コウラ社」と称し放生川の側にあったそうです。慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いの際に焼失、明治15年再建。吉田兼好 の『徒然草』の52段「仁和寺にある法師」にも登場するお社です。八幡(やわた)の産土神。毎年7月17・18日は天明年間から続く高良社祭(太鼓まつり)が行われています。
航海記念塔
こうかいきねんとう

神応寺への道の途中にある巨大五輪石塔のこと。元は旧極楽寺の境内に建立されたものでしたが、極楽寺は廃寺となり五輪塔のみが残ったのだとか。五輪塔という事で石清水八幡宮所縁の僧行教の墓とも言われていますが、平安時代末期に摂津國尼崎の豪商が日宋貿易の途上で時化に遭い、石清水八幡宮に祈って無事に帰国できた礼に建立したものとも伝えられています。その事から航海の無事なる事を願う船乗り達に信仰され「航海記念塔」と呼ばれるようになったといいます。この他にも色々な言い伝えを持ってもいます。高さ6m、下部の方形の一辺2.4mの石塔で国の重要文化財に指定。日本最大級のもの故に「何?何故こんなところにこの大きな石塔はっ」というインパクト大。
単伝寺
たんでんじ 臨済宗妙心寺派 山号/直指山 本尊/五大釈迦牟尼仏 通称/らくがき寺

創建年代は不明で、古くは八幡市八幡の神原町にあったといいます。その後衰退し男山四十八坊の一つ法童坊に置かれた事もありました。今から200年ほど前、京都妙心寺の単伝和尚が怪我除け厄除けの救苦観音を安置し、現在の地に再興。後、享保6年に瑞応(中興の祖)が復興。本堂は嘉永7年の地震により倒壊し、その後再建。さて、南北朝時代のこと石清水八幡宮の改築に際し、楠木正成が武運長久を願い寄進した楠木の残り株から一体の走り大黒天が刻まれました。大黒天は境内の大黒堂に安置されています。単伝寺がらくがき寺と称されるのは、この大黒堂の白壁に願い事を書き入れる事が出来るからです。大黒様に願い事がよく見えるようにと壁に書くことが始まった・・・といいますが、どうやらこの落書きにも歴史があるようです。因みにこの白壁は年末に塗り替えられる事になっています。ももかも書き書き。こじんまりとした境内は居心地が良かったです。ワンコには吠えられましたけれどっ。参拝日は土・日・月曜日のみ。それ以外は要予約。
流れ橋
ながればし

正式には府道八幡城陽線上津屋橋といいますが、一般には「流れ橋」と呼ばれている橋。時代劇にもよく登場する事から、ももかもいつかは渡りたいと思っている橋なのです。昭和28年3月に渡し船の置き換えとして建設され、木津川に架かり、全長356.8m、幅は3.3m、木製の橋としては日本最大級であり、それが故に川の増水の度に流されては再建されています。平成に入ってからの流出も多く、ももかは平成24年10月の台風による流出直後の様子を目にした事があります。ですから、見た事はあってもまだ渡った事がないのです。
飛行神社
ひこうじんじゃ

飛行原理を発見した二宮忠八が、飛行機事故殉難者の御霊をお祀りするために私財を投じて自宅地内に創設した神社。大正4年創建。祭神の饒速日命は大阪府交野市の磐船神社から勧請、古くは天磐船に乗って降臨された神様です。他に航空殉難者の霊・航空業功績者、及び薬祖神(武田長兵衛、武田薬品の創業者)・金毘羅神・白龍神(地主神)をお祀りしています。忠八は飛行原理を発見しつつも当時の日本においてはなかなか理解されませんでした。そして莫大な開発費を調達するという困難もありました。そんな中、有人飛行機の研究中に飛び込んできたのが明治36年のライト兄弟の有人飛行器実験の成功のニュース。これを以て、自らの飛行機関開発の夢を断念しました。今から思えばこんな素晴らしい日本人がいたなんて!と思いますよね。勿体ない・・・。設計図はもっと前から忠八の目の前に出来ていたのに。現在の神社は忠八の飛行原理発見百周年を記念して、彼の次男二宮顕次郎によって再建されたもので古代ギリシャの神殿のような雰囲気。二代目の鳥居はジュラルミン製。資料館はビルの中にありますが、遠くから見えたので迷わず辿り着けました。


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