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その歴史
1789年7月14日のバスティーユ牢獄陥落。この日を境にフランスは革命への道のりを歩んでいく事になります。国王ルイ16世がリアンクール・ド・ロッシュフーコー侯爵から「革命」の勃発を知らされたのはその翌朝の事でした。しかし民衆が武器を取ったといっても、当時はまだ国王への敬愛と信頼を失っていた訳ではなかったのです。
このバスティーユ襲撃に対してパリ市長フレッセルはその行動が非協力的であったとして惨殺され、新しくジャン・シルヴァン・バイイが市長に就任しました。この時、国民衛兵司令官となったラ・ファイエット将軍はパリ市の色である赤と青にブルボン王家を表す白を含めた三色を国民軍の帽章として考案したのです。これが三色旗の始まりで、7月17日にはルイ16世は弟のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)を国王代理官に任命した上で、ヴェルサイユから襲撃の跡が生々しいパリへと向かいました。そこで彼は新パリ市長から三色帽章を受け取っています。
三色の色については次の由来があります。
青・・・フランスの守護聖人でもある聖マルタン(Saint−Martin 聖マルティヌス、聖マーティン。ハンガリーに生れ、フランスで初めての修道院を設立するなどの布教活動を行なった)の青い外套の色(聖マルタン修道院は無地の青旗を掲げた)と、カペー朝後期(13世紀〜16世紀後半)の青い百合紋旗(聖マルタン修道院の青旗に機縁して作られた旗)から。
赤・・・シャルルマーニュ(Charlemagne カール大帝 742−814)所縁のオリフラム旗(Oriflamme 俗に「聖ドニ修道院の軍旗」。聖ドニ修道院はフランス王家の庇護を受けており、戦闘時に国王を守護する旗としてこれを掲げた。オリフラムとは金色の炎の意。後に緋色(赤)の旗)から。
白・・・ジャンヌ・ダルクの白い百合紋とブルボン王家の白から。
当初の三色旗は旗竿側(左)が赤、中は白、右は青の配色でした。これが1794年10月24日に改定された時に現在にも見られる、旗竿側が青、中は白、右は赤の配色となりました。この配色は「自由・平等・友愛」をも意味するとされていますが、当初は「自由」と「平等」をのみ表していました。これに「友愛」を加えたのはロベスピエールだったといいます。因みにこの色の幅ははためく時に三色が等分して見えるように考えられ、青色は33%、白は30%、赤は37%の比率となっています。
この国旗は1814年の王政復古によりブルボン王家の白旗が復活した為に一時は廃止され、1830年の7月革命で国王シャルル10世が退位しブルボン王家が倒れ、オルレアン家のルイ・フィリップが「フランス人の王」となった時に復活しました。
その後一時は廃止も懸念されたものの1946年(第4次共和制)を経て現在は1958年(第5次共和制)の憲法により国旗として制定されています。また、国旗として制定された10月24日はトリコロール(tri=3、colore=色、の意)記念日になっているのです。
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