このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

パリ市長
Maire de paris

その歴史

パリはセーヌ川の中にある島に発祥し、古来はリュテスと呼ばれていました。紀元前3世紀頃、パリシー(Parisii)というケルト人の民族がここに住み着いた事から、これがパリ(Paris)の由来となっています。パリの紋章はラテン語で「Fluctuat nec mergitur(たゆたえども沈まず)」の文字が刻まれた「3本マストの帆船」で、元々はセーヌ川水運組合の紋章だったといいます。この紋様は中の島の形が船に似ている事から出来たとされ、川によって発展を果たした都市である事が分かります。またパリを囲む地方をイール・ドゥ・フランス(Ile de France)といいますが、これを直訳すると「フランスの島」。つまりこの地方が、‘川によって囲まれた島のような形’として表された言葉なのです。

フランス革命以後、パリ市では歴代12人の市長が誕生しています。初代バイイはバスティーユ牢獄が襲撃され、革命の火蓋が落とされたそのパリで初の市長に選出されました。しかし革命は躍進を続け、ついには恐怖政治(テルール)と呼ばれるまでに発展していきます。1794年7月にロベスピエールが失脚し、フランスの中心であったパリの機能はバラス将軍など反ロベスピエール政権に渡りました。以降ナポレオンの台頭、ブルボン王家・オルレアン家の王朝の交替を経る混乱の半世紀は市長が選出される事はありませんでした。

オルレアン家の国王ルイ・フィリップが2月革命で退位し、第2次共和制政府が発足すると、再びパリ市長が選ばれました。しかし共和制になったのも束の間、ナポレオン3世が即位し帝政がひかれると、必然的に市長は廃止され、パリに市長の姿を見る事になるにはプロイセンとの戦いに敗れナポレオン3世が退位するまでを待たなければなりませんでした。

帝政の崩壊と民衆の発起。1870年のパリは動乱に満ちていました。そして大都市パリが血に染まったパリ・コミューンは、鎮圧後のパリから自治を奪う事になってしまいます。それから。ジスカールデスタン大統領により、1975年にようやくパリの自治が認められ、パリに市長が誕生するまでには106年もの年月が流れたのです。

革命から200年余りという時間の流れの中に、余りにも少ない数なのは、このパリという場所が動乱に満ちた特別な都市であった事を物語っています。

歴代パリ市長と在職期間

 1第1次共和制ジャン・シルヴァン・バイイ1789年 7月14日〜1791年11月18日
選挙。 *1793年処刑
 2第1次共和制ジェローム・ペティオン1791年11月14日〜1792年10月15日
選挙。1792年7月6日〜13日停職 *1793年逃亡、自殺
第1次共和制(市長代理)フィリベール・ボリ1792年 7月 6日〜1792年 7月13日
第1次共和制(市長代理)ルネ・ブーシェ1792年10月15日〜1792年12月 2日
第1次共和制(市長代理)アンリ・ルフェーブル・ドルメソン1792年11月21日(選挙により選出。辞退)
 第1次共和制ニコラ・シャンボン1792年11月30日〜1793年 2月 2日
選挙。
 4第1次共和制ジャン・ニコラ・パッシュ1793年 2月14日〜1794年 5月10日
選挙。
 5第1次共和制ジャン・バティスト・フルーリオ・レスコ1794年 5月10日〜1794年 7月27日
指名。 *1794年7月27日・・熱月9日の反動。
 6第2次共和制ルイ・アントワーヌ・ガルニエ・バジェス1848年 2月24日〜1848年 3月 5日
指名。
 7第2次共和制アルマン・マラスト1848年 3月 9日〜1848年 7月19日
指名。
 8第2次帝政崩壊エティエンヌ・アラゴ1870年 9月 4日〜1870年11月15日
指名。
 9パリ・コミューンジュール・フェリー1870年11月15日〜1871年 6月 5日
指名。 *パリ・コミューン鎮圧後に発足した第3次共和制政府により追放。
10第5次共和制ジャック・シラク1977年 3月25日〜1995年 5月22日
選挙。
11第5次共和制ジャン・ティベリ1995年 5月22日〜2001年 3月25日
選挙。
12第5次共和制ベルトラン・ドゥラノエ2001年 3月25日〜2014年 4月 5日
選挙。
13第5次共和制アンヌ・イダルゴ2014年 4月 5日〜現在
選挙。初の女性市長


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