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ヴェルサイユ宮殿
その、王たちの歴史

(写真提供:こゆり)

ルイ13世

狩猟を好んだルイ13世
(1601〜1643)は、その趣味の合間にヴェルサイユ村の白十字亭や銀貨屋などの宿屋に泊まるのが常でした。しかしそれが度重なると、より過ごしやすい場所で疲れた体を休めたいと思うようになりました。

パリの石工ニコラ・ユオが請け負ったこの小さな館の建築は1623年にはほぼ完成し、翌年3月9日にはルイ13世が新館に泊まりました。調度品が整えられてはいなかった館の中で、なんと国王自らベッドを組み立てるのを手伝ったという話が残っています。この館はルイ13世にとても気に入られますが、もともとは狩猟の為の一時の宿の役割として作られた為、後年になってもう少し広く大きな館をと彼は望み始めます。建築家フィリベール・ル・ロワはそんな王の意向を受け、改築を行いました。一方、国王は館に面する畑や牧草地を数年の歳月をかけて買い取っていきました。これが現代にも知られる大庭園の元であり、その敷地面積は約70ヘクタールという広大なものです。


ルイ14世(太陽王)

ルイ13世がサン・ジェルマン宮殿で亡くなった後、僅か4歳の王太子ルイ
(1638〜1715)が即位しました。彼が初めてこのヴェルサイユ宮に足を踏み入れたのは1651年4月18日。彼もまた父王が残した小さな館を気に入りま
[ルイ14世騎馬像 Statue de Louis XIV
この像は1837年のルイ・フィリップ時代に第2の前庭に建てられたものです。この正面が国王の表御座所。ヴェルサイユ行進の時はここに群集が押し寄せました。
した。しかし当時12歳だった彼は、まだ摂政であった母后アンヌ・ドートリッシュや宰相マゼランの力がなければ何も出来ない幼君でした。そのマゼランが1661年3月9日に亡くなった時、22歳の彼は絶対王政を掲げる太陽王としての道を歩み始める事になります。

この年、財務卿ニコラ・フーケのヴォー・ル・ヴィコント城に招かれたルイはその華やかな生活と新しく美しい城、そして庭園に目を奪われました。フーケは同年9月にその豪奢な生活ぶりから公金横領罪を問われバスティーユへ投獄されますが、一説に王の嫉妬が彼の没落を約したのだいわれています。このヴィコント城がルイ14世の宮殿作りに多大な影響を与えた事は間違いなく、同じ年にルイ14世はより快適に過ごす為にヴェルサイユ宮殿の改築を何度か行ってもいるのです。庭園の改造にはヴォコント城の庭園を手がけた造園家ル・ノートルが招かれました。

しかし、巨大な庭園に比べてみると宮殿自体はその中に埋没してしまうような規模。ルイ14世は宮殿拡張の必要があると考えるようになります。拡張工事は建築家ルイ・ル・ヴォーと建築長官ルイ・バプティスト・コルベールの意見を取り入れながら1668年に始まりました。古い宮殿を新しい宮殿が囲むアンドロップと呼ばれる建築方式は、宮廷人サン・シモンによって「美しさと醜さ、広大な広がりと行き詰まる狭さの同居」と辛辣な批判を受けています。1670年ル・ヴォーが没し、その後はフランソワ・ドルベがこの任を負いました。

1682年5月6日には宮廷をパリから移転し、国王一家を始め王侯貴族がこのヴェルサイユへと集まってきました。国王が入城したとはいえ、未完成の部分も多々あっ
[王の散歩道]
シンメトリーの美しい庭園です。ルイ14世は外国の大使などが来るとここを案内したといいますが彼が歩くと噴水があがったのだとか。手前はアポロンの泉水。
た宮殿はその後も拡張と改築を重ねていきます。因みに有名な大ギャラリー(通称「鏡の間」)が完成したのは1684年の事でした。この17枚の巨大な板ガラスによる鏡は、コルベールがヴェニスのガラス製品に対抗してパリに造ったガラス工場で制作されたものです。

ルイ14世は自らの日常を人民に公開する事を常としていましたが、この宮殿も一般人も気軽に入る事が出来たのです。宮殿を見学する人々にはガイドがつきましたし、施設見学の必需品・ガイドブックさえあったのでした。

ヴェルサイユ宮殿の名声は欧州各地に広がり、ルイ14世は自分が目指していた「太陽王」となりました。しかしその国王も次第にその豪奢さと相対する素朴な生活を望むようになります。自らがフランスを照らす太陽であるとしてその宮殿の中心に作らせた王の寝室(表御座所)から、彼はルイ13世時代の名残を持つ中庭に面した小さな御座所に住む事を好むようになるのです。ルイ14世は1715年9月、ヴェルサイユ宮殿で亡くなりました。国王はヴェルサイユ以外の場所で病臥は出来ないという規則があり、これは次王ルイ15世にも受け継がれました。ルイ15世は狩猟の途中で倒れ暫くトリアノン宮殿で休んでいたのですが、その慣例に従い重体の身をヴェルサイユに運んだのです。

イ15世(最愛王)

ルイ14世の王太子ルイ
(通称グラン・ドーファン)は1711年に、嫡孫ブルゴーニュ公ルイ(通称プチ・ドーファン)は1712年に亡くなっており、ルイ14世が最期の時

[マルスの間 Salon de Mars]
中央天井にはクロード・オードランの筆による軍神マルスが描かれています。ルイ14世時代にはアパルトマンという宴が催されたのですが、ここでは国王一家以外の人々がカード遊びや賭け事に興じました
を迎えるにあたりその枕辺に呼ぶ事が出来たのは当時5歳の曾孫ルイ(1710〜1774)でした。ルイ15世はオルレアン公フィリップ2世を摂政に迎えますが、まもなく宮廷はヴェルサイユからヴァンセンヌ、そしてパリへと移りました。彼がヴェルサイユに帰ってきたのは12歳の時。この間7年。取り残されていた宮殿は今まで暮らしてきたどの宮殿よりも彼を威圧して迎えました。

彼が曽祖父ルイ14世の作ったこの場所に手を加え始めたのはかなり後になってからで、寛げる空間をこの宮殿の中に持ちたいと希望して改造改築を始めるのです。ルイ15世時代における改築は美意識よりも生活しやすさにあった為、先王が目指したものとはかけ離れたものをそこに付け加える事になってしまいました。また王女達も王に倣い、改築を繰り返したのです。この状態を歎いた建築家アンジュ・ジャック・ガブリエルは先王の時代に通じるべき建物を造る為にルイ15世を説得し続け、約30年後の1771年に至ってようやく許可を貰う事が出来たのでした。

ルイ15世の即位当時の国家財政は破綻寸前に近く、様々な試みも失敗した状態でした。これを救ったのは枢機卿アンドレ・エルキュール・ド・フリュリーでしたが、ルイ15世は政治には無関心で、持ち直したかにみえた財政もフリュリーが没する頃には再び危機が訪れていました。ルイ15世は若かりし頃よりフランス一の美男子といわれ、ポンパドゥール夫人やデュ・バリ夫人などを寵妃に迎え、優雅な生活を送っていました。彼が1774年に天然痘であっけなく世を去った時、民衆はその死を喜び、改革をしてくれるであろう新国王の即位を祝ったのです。


ルイ16世

病気の国王の部屋から隔離された王太子夫妻がその知らせを聞いた時、王太子ベリー公ルイ・オーギュスト
(1754〜1793)は19歳、妃マリー・アントワネットは18歳でした。ルイ・オーギュストは、ルイ15世の王太子で彼の父ルイ・フェルナンドが1765年に亡くなっていた事、そして彼の長兄ブルゴーニュ公と次兄アキテーヌ公が夭折していた為に、3男に生まれながらも
[中央格子門 Le Grille D’honnevr
ルイ14世騎馬像から中央格子門を覗いたところです。この門はルイ18世時代のもの。ヴェルサイユ行進の折、集まった民衆はこの庭を埋め尽くしたのですが、彼等を宥める為にバルコニーに出たマリー・アントワネットの心境はどのようなものであったのでしょう。ルイ16世達がこの宮殿を去った後、この石畳も荒れていったのです。
王太子となっていたのです。ルイ16世は国王たるものの心得を十分受け継ぐ事がないまま即位する事になったのですが、勤勉な人間でした。刃の下に消えたイングランド国王チャールズ1世の轍を踏まぬよう、心がけていたともいわれますが彼が手にしたフランス王国とその財政は既に逼迫していたのです。

先王亡き後、ジャック・ガブリエルは工事を資金不足という名目で中断しなければならず、ルイ16世時代の宮殿の改築は僅かでした。しかし王妃となったマリー・アントワネットの浪費は激しいもので、「赤字夫人」と呼ばれ民衆の顰蹙をかっていました。外国人であった事も不人気の原因でもありました。マリー・アントワネットは儀式に凝り固まったヴェルサイユ宮殿の生活を嫌い、自分だけの空間を求め、退屈するのを怖れました。そしてそれを離宮のプチ・トリアノンに見出したのです。王妃が去った宮廷には貴族達の心さえもが離れていったのですが、彼女がその事にようやく気がついた時には取り返しがつかないところまで来ていました。それは今まで国王や王妃を中心にし形作られていた宮廷の在り方が変わった時でもありました。

1789年7月14日。パリのバスティーユ牢獄が民衆の手に落ち、民衆は武器を取り立ち上がりました。ついで10月5日。暴徒と化した民衆がヴェルサイユ宮殿に雪崩れ込み、王妃は着の身着のままで寝室から隠し扉を経て国王の部屋まで逃げなければなりませんでした。翌日、国王一家は民衆の要求を受け入れパリへと向かう事になるのですが、「私の為にこの憐れなヴェルサイユ宮殿を救う努力をして欲しい」とルイ16世は馬車に乗り込む際にヴェルサイユ宮殿の管理を任された若い士官に向かって呟いたといいます。国王一家がパリで拠点とした宮殿はチュイルリー宮殿で、ここにはヴェルサイユ宮殿から家具が運ばれてきました。以降、ルイ16世はヴェルサイユに戻る事がないままチュイルリー宮殿や離宮で生活を送り、1792年8月10日のチュイルリー宮殿襲撃を経て、タンプル塔へ幽閉されます。ヴェルサイユを去って約3年後の1793年1月。彼は断頭台に上りました。フランス革命時、ヴェルサイユ宮殿の調度類は民衆によって破壊されたり革命政府によって売りさばかれ、国外へと散逸していきます。


その後のヴェルサイユ宮殿

ルイ16世が断頭台の露と消えた後、王妃マリー・アントワネットや王党派、そしてルイ16世の弟プロヴァンス伯爵ルイ・スタニフラフ
(1755〜1824)は王太子ノルマンディー公ルイ・シャルル(1785〜1795)をルイ17世として支持しました。タンプル塔に幽閉されていたこの少年王は、僅か10歳でこの世を去ります。それを受け、外国に亡命し自らをルイ17世の摂政としていたプロヴァンス伯爵は、国王ルイ18世を名乗ります。
[礼拝堂]
ジュール・アルドゥアン・マンサールが考案し彼の義兄弟ローベル・ド・コットにより1710年に完成。天井画はアントワーヌ・コワベル、装飾はフィリップ・ムースニエが手がけました。
ルイ16世とマリー・アントワネットが結婚式を挙げた他、毎日のミサが執り行われました。

しかしフランス共和国は1人の英雄をこの世に送り出します。ナポレオン・ポナパルト
(1769〜1821)。フランスとイタリアと何度となくその領有権を争われてきたコルシカ島の出身のこの人物は、「革命の申し子」と呼ばれ、皇帝にまで上り詰めます。彼は主人がいなくなり荒れるにまかせていたヴェルサイユ宮殿の修繕を行い、世の人々にかつての宮殿の壮大な記憶を蘇らせました。ナポレオンは1809年にルイ14世の妃マントノン夫人の寝室を改築し私室を作らせています。

ナポレオンの失脚後、ルイ18世が流転の亡命生活の果てにようやくフランスに帰国し、国民に迎えられました。彼はヴェルサイユ宮殿の修築に乗り出したものの、結局はヴェルサイユに戻る事が出来ないままパリで亡くなります。ルイ18世夫妻には嫡子がなく、王位は実弟のアルトワ伯爵シャルル・フィリップ
(1757〜1836)が受けました。彼は1824年にシャルル10世として即位しますが、1830年に起った7月革命の翌年に退位を余儀なくされました。王位はシャルル10世の嫡子アングレーム公ルイ・アントワーヌ(1755〜1844)がまずルイ19世として受け、それを彼の甥にあたるボルドー公シャンポール伯爵アンリ(1820〜1883)に譲り渡すという形で受け継がれました。しかし、実際はそう思ったように運ばず、フランス王国が選んだのはブルボン王家の国王ではなくオルレアン家のルイ・フィリップ(1773〜1850)だったのです。3人の国王(シャルル10世、ルイ19世、アンリ5世)はまた国外への亡命を余儀なくされ、ルイ・フィリップは1848年に2月革命によってその座を追われるまでフランス人の王として君臨します。

ルイ・フィリップはヴェルサイユ宮殿の処置について1833年にフランス歴史博物館として存続させる事を決定し、それに伴い、宮殿の改造工事を命じました。この工事により国王と王妃の御座所はその難を免れましたが、かつて王侯や廷臣達が住んでいた部屋は次々に取り壊され、板壁や階段などもその対象になりました。こうして広くなった部屋にはフランスの建国から近代に渡るフランスの美術品を展示する事になったのです。

ルイ・フィリップの退位後、共和制とナポレオン3世
(1808〜1873)による帝政を経て、セダンの戦いで敗戦した1870年にはプロイセン軍がヴェルサイユ宮殿を占領。プロイセン国王の居城となったヴェルサイユ宮殿ではビスマルクによるドイツ帝国の宣言が行われました。現在フランスは第五共和制をひく共和国です。そしてこの宮殿は歴史博物館である一方、共和国大統領府専属の国立宮殿ともなっています。

フランス革命におけるヴェルサイユ宮殿の美術品や調度品の破壊と散逸から200年。現在、数多くの人の手によって昔のヴェルサイユ宮殿の姿を伝える為にその品々が寄贈されたり買い戻されたりしています。

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