このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

諏訪の浮城


桜満開の高島城

戦国時代、諏訪の政庁は上原城に置かれていました。武田信玄による諏訪攻略により諏訪総領家が滅亡すると、この地は武田氏の支配下に置かれ、政庁も上原城から茶臼山(手長山)の茶臼山城(高島城)に移りました。茶臼山城は文明年間に築かれた上原城の支城。鎌倉街道とは別に上原城から桑原城、そして茶臼山城と山を伝って赴く事が出来る山城でした。これを現在の高島城と区別して別名を旧高島城・高島古城などと呼んでいます。豊臣時代に日根野織部正高吉が諏訪に入ると、茶臼山城は廃され、高島の地に新たに平城としての高島城を作りました。天正19年(1598)の事です。僅か7年で廃された金子城の石材も使われているともいわれ、平城としては国内では最も高い場所に造られたという特色を持っています。

もともと此処は諏訪湖に囲まれた沼地でした。湖はもっと大きく広く、その中に僅かに盛り上がった島があり、高島と呼ばれる漁村があったのです。高島村の民とその氏神の社(八剣神社)を別地に移した後、城は築かれました。その様子はまるで湖に浮かんだかのよう。「浮城」の別名は此処に由来しています。

日根野氏は2代で移封となり、江戸時代には再び諏訪氏がこの地を治める事になりました。初代藩主は武田氏によって滅ぼされた諏訪頼重の従兄弟の頼水。諏訪出身の諏訪家が代々この地を治めた為、お家騒動などがあった割には一揆もないまま平穏に明治に至ったと言われています。高島藩は二万七千石でしたが、その石高以上に城は立派で羨ましがられたのだとか。面白いのは温泉地だけあって城内にも温泉が引かれていた事でしょう。また現在は銅板葺きですが、冬の凍てつく寒さへの対処として瓦葺きではなく柿葺きであったという特色がありました。更に幕府のお預け人を受け入れた事でも知られ、松平忠輝(徳川家康の子)や吉良義周(吉良上野介の養嗣子)らも此処で過ごした後、諏訪の地に眠っています。

明治3年に払い下げが決まり、高島県庁舎・東京鎮台第二分営武庫などと名を変えますが、破却が決まり、明治9年(1876)には石垣を残すのみとなりました。交通の要所に立地する点でも破却は免れなかったのかもしれません。大正時代に一度、天守閣復興の動きがありましたが実現にはいたりませんでした。しかしその遺構は、高島城の鬼門とされ崇敬された手長神社の境内にある聖徳神社の鯱鉾に見る事が出来ます。公園として開放されていた高島城が復元されたのは昭和45年(1970)。明治初期に撮影された写真がその姿を再現させました。しかし一世紀の間城を取り巻く環境はめまぐるしく変わり、開拓と埋め立てにより湖は城から遠ざかっていきました。

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