このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

牛にひかれて善光寺参り


2009年4月の善光寺前立本尊御開帳。
白雉5年(654)に御本尊の一光三尊阿弥陀如来像は秘仏とされた。
明治以降七年に一度の居開帳の形となり現在では丑と未の年がこれにあたる。


善光寺の御本尊の一光三尊阿弥陀如来とは、欽明天皇の時代に日本にやってきた仏さまで、大臣・蘇我稲目はこれを祀り向原寺を建立しました。ある時日本では熱病が流行し、それを異国の蕃神を祀った故とする大連・物部尾輿らは天皇の許しを受けて寺に火をかけ如来像を燃やそうとしたのです。しかし寺は灰燼にきしたものの如来像には傷一つなく、その後いかなる手を使ってもこれを傷つける事は出来ません。如来像は難波の堀江に投げ込まれてしまい、しばらくの間水底を漂う事になりました。
この如来像を引き上げたのは信濃国の本田善光という人物で、彼が国司に従って難波に赴いた折に、如来像は彼に声をかけ信濃へと連れ帰り祀る事を告げたといいます。これが善光寺の前身です。如来像は秘仏とされた為、この御身代わりに鎌倉時代に造られたのが前立本尊。この前立本尊は七年に一度拝む事が出来ます。因みに秘仏とされる御本尊は千四百年以上の歴史の中で江戸時代に一回だけ、調査があった時に開かれたそうです。流石、ヤナギー(=柳澤吉保)の力は違う・・。
平成14年から19年にかけて山門の修理が行なわれ、大正年間の修理の折重厚な檜皮葺に変更された変屋根は、創建当時の栩葺(とちぶき)に復元されました。栩葺屋根建造物としては日本最大のものです。これを記念して約40年ぶりに山門の登楼参拝が行なわれました。



天に向って伸びる回向柱。
前立本尊の阿弥陀如来の右手中指から柱へは
「善の綱」が続いている。

一尺五寸、高さ三十三尺の柱の上部には
五大(空・風・火・水・地の意)の梵字が。
大切な回向柱は、
江戸時代、松代藩が寄進する慣わし。
現在では松代町(藩)大回向柱寄進建立会が
その伝統を受け継いでいる。
回向柱は牛にひかれ境内へと運ばれる。
寛延3年に造られた山門。
額は輪王寺宮公澄法親王の御筆。
文字の中に鳩が隠されているのは、
信州人なら周知の通り。
約100年後の弘化4年の善光寺大地震では
善光寺平を中心に多くの被害を出した。
あたかも御開帳期間中であった界隈は
「賑しきにうかれたち、時の過るも知らざりけり」
というはなやかな夜が鳴動と共に一変。
本堂、山門、経蔵はこの地震にも耐え残った。


京の立ち釈迦、信濃の寝釈迦

善光寺の仁王門近くにある世尊院の小御堂には、釈迦涅槃像が安置され
七年に一度御開帳が行なわれる。
日本では唯一といわれる等身大の釈迦像涅槃像。
その右手首に巻かれた「善の綱」は回向柱へと結ばれ
人々の祈りを受けとめている。



御本尊・阿弥陀如来ー善光寺如来ーは信州を離れた事がある。
この甲斐善光寺もその一例。
撞木造の金堂には武田菱が光る。
戦乱の中、武田信玄はこの板垣の地に善光寺如来を遷したといわれる。

武田家滅亡の後、長きに渡り戦国武将らの元にあったが、
慶長2年に天下統一を果たした豊臣秀吉により、
京都・方広寺の御本尊として迎えられた。

しかしある夜、秀吉の枕元に立った善光寺如来は
信州へ帰りたい旨を告げたという。
善光寺如来が帰路についた翌日、
この天下人は夢に例えたその生涯を終えた。




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