このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

諏訪の語りべ
〜ミシャグチ社と神長官守矢史料館〜


御頭御社宮司総社。
全国のミシャグチ社の総本社は
こんなにも小さい。
それが第一印象でした。
お社から見た神長官守矢史料館全景。
明治維新を境として五官の制度も廃され、
大祝も神長官も諏訪には存在しない。
そして一子相伝の教えも
今はもう知る人もいない。

「ミシャグチ(ミシャクジ)」は「御社宮司」「御射宮司」「遮護神」「尺神」「御左口神」などの字をあてて示されます。シャグチの意味としては諸説ありますが、一説にいうと「石棒」。これだけでもその古さを感じる事が出来ます。古くから人と共にあった、食べる為に、魔から逃れる為に、子孫が増えるように・・・。そんなものを石棒に降りた神に願ったのでしょう。建御名方命は諏訪入りするにあたり、原住民の洩矢神と戦いそれに勝利します。敗れた洩矢神は以後を建御名方命の傍らで過ごします。そして建御名方命の子孫は現人神・大祝(神氏=諏訪氏)として、洩矢神の子孫は神長官(守矢氏)として、この地にありました。その守矢氏が祀っていたのがミシャグチなのです。

諏訪神社(大社)の不思議な部分は、神を降ろしその神意を大祝に伝え、また神を上げるという役割を神長(官)が行ってきたという事。では諏訪神社の本来の神というのは建御名方命の名を借りた、諏訪原住の神さまだったのでは・・・?因みに年末から春先まで、上社前宮の御室にて行われた神事は興味深いもの。地下室に深い堅穴を掘り神座を置き神を降ろす。萱で作られた五丈五尺の大蛇が見守る中、大祝と神長官は向き合いここで年間の諏訪の大事を決めるのです。また、大祝の職位(即位)に関しても神長官はミシャグチにお伺いをたてました。

この神降ろしの役割を成してきた神長官の神事は、一子相伝の秘中として神長官屋敷の祈祷殿において真夜中に口伝によって伝わりました。明治維新を迎え大祝と五官(神長官・禰宜太・権祝・擬祝・副祝)の制度が廃された後でもそれは変わる事がありませんでした。しかし終戦後、残念な事に全てを後代に伝える事が出来ないまま76代目守矢実久氏が世を去った為に、この口伝は僅かな伝承の験を残しただけで途絶えてしまいました。

御贄柱(おにえばしら)>
天辺を三角錐にした桧の柱には
桧、柳、(木雲)、辛夷の枝、
柏をつけている。
右上は袋に入ったさなぎの鈴。
<神長官守矢史料館>
江戸時代、御頭祭を見た
菅江真澄の残した記録を復元、
古き神事の姿を伝える。
脳和え、生鹿、生兎の復元は
神と諏訪人との饗宴の歴史。
殺生が忌まれた時代においても
社では「鹿食免」(かじきめん)という
免罪符を発した歴史を持つ。
神長官屋敷の敷地に建てられた史料館は、そんな守矢氏の所蔵している文書や江戸時代における御頭祭の様子が再現されています。諏訪大社の神事は贄をもって行っているものが見受けられます。現在の元旦の行事である蛙狩神事もそうですね。御頭祭もその一つで、鹿・雉・鯉・鮒・海老などの調理が75膳と酒が75荷、計525膳が並べられました。そして江戸時代までは童も神に捧げられたといいます。御贄柱に縛られた童(御神。おこう)は祭りが終わる頃にはいつしかその姿がなかったとか。流石に現在の御頭祭はそのような贄はありませんが、ところどころにその風習の名残があるのを見る事が出来るんですよ。

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