このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

諏訪の語りべ
〜上社大祝の足蹠〜


古き時代から
神として諏訪と共にあった大祝。
その永き礎を僅かに伝える大祝が住もうた館。
大祝も、周りに集っていた神長官も祝達も
もう諏訪にはいない。
僅かに残る遺構のみが、確かにあったものを語る。

建御名方命は出雲より諏訪へと入り、その子孫は現人神・大祝(神氏=諏訪氏)として世襲され、神長官・禰宜太・権祝・擬祝・副祝らの五官祝(ごかんのほうり)と共に諏訪の地を守ってきました。

諏訪頼重は、武田信玄の諏訪侵攻に敗れ、実弟で上社大祝の頼高と共に甲斐に送られ、自刃します。ここに諏訪総領家は滅亡しました。二人の叔父である諏訪満隣(竺渓斎)は武田氏に降伏し、従う事となりました。満隣の次男・頼忠は大祝となります。後に武田家が滅びると、満隣は頼忠を以て悲願の諏訪家再興を果たしました。頼忠の子・頼水は諏訪高島藩主となり、同じく子の頼廣は上社大祝の職につきました。頼廣より、大祝家は諏方(すわ)を名乗ります。
元々上社前宮の神原にあった大祝の屋敷は、16世紀末には本宮近くの宮田渡の地に移りました。諏方大祝家の別名を宮田渡大祝家というのはこれに起因します。現在残る屋敷は、文政13年に焼失した後の天保年間に再建されたもの。特徴的な総門や諏訪梶紋のある土蔵は江戸時代のもので、土蔵の近くにある大銀杏(樹齢200年)は諏訪市天然記念物に指定されています。因みに大祝が住まう屋敷を神殿(ごうどの)と称します。
諏訪大祝家は明治政府によってその制度が廃止されるまでの、300年もの間続きました。そして平成に至り15代目の諏方弘氏がこの世を去ると、その家系は途絶えてしまいました。
平成19年12月。神宮寺今橋の大祝居宅(約265平方メートル)と総門、土蔵、茅野市宮川にある大祝家墓地(約684平方メートル)、数千点の古文書を含む史料群は相続財産管理人によって諏訪市に寄贈され、保存されることとなりました。



「大祝」であった人々
前宮にある「諏訪照雲頼重の供養塔」

『太平記』にもその烈しい最期が記される諏訪頼重。頼重は、鎌倉幕府滅亡の際に難を逃れた北条高時の遺児時行(亀寿丸)を担ぎこの地にて決起。「中先代の乱」と呼ばれるこの戦いにおいて信濃勢総大将となり鎌倉を奪うも、足利勢に敗れ鎌倉の大御堂(勝長寿院)にて自害した。頼重に従った諏訪武士らは、その死に際し、時行も共に自害したと見せかけて逃さんが為、誰が誰ともわからぬよう顔の皮を剥いだという。時に建武2年8月19日。勝長寿院は、源頼朝がその父義朝と乳子鎌田正清の遺骨を埋めた寺で、源氏の菩提寺ともいえる寺であったが後に焼失。現在は跡地を示す石碑が建てられている。
この供養塔は、明治11年鶏冠社付近から出土したもので、「照雲」の文字が刻まれているのを、守矢家75代目實顕氏が大祝であった諏訪頼重と明らかにしたという。

供養塔がある場所は大祝の住まう神殿
ごうどのと呼ばれた地。文明15年1月、大祝諏訪継満は、神殿で総領家諏訪政満らを謀殺。これ以降、血を忌んで上社の祭祀は前宮から本宮へと移っていく。

「大祝諏方家墓所」(御廟)

元々諏方大祝家の墓地は、少林山頼岳寺(茅野市上原)宗沢庵にあった。しかし、明治の廃仏毀釈により宗沢庵が廃された為、高部の地に移されたという。
元は守矢家の土地であったらしい。守矢家の墓地は高部村の古い共同墓地である熊野堂墓地へと移った。こちらには権祝矢島家の墓もある。

諏方頼廣より15代の当主を始め、所縁の人々が眠る。

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