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諏 訪 大 社
諏訪大社 長野県茅野市・諏訪市・下諏訪町
全国にある諏訪神社の総本社で古来より東国第一の軍神として崇められてきました。上社と下社の二社があり、『古事記』でお馴染みの出雲の国譲りに出てくる建御名方命(たけみなかたのみこと)とその妃・八坂刀売命(やさかとめのみこと)をお祀りしています。建御名方命は大国主命の次男で天照大神に抵抗して敗れ、諏訪に鎮座したといわれています。
明治維新に至るまでは上社と下社は別でしたが、維新後は二社を合わせて一社制となり、昭和23年に諏訪大社と改められました。
上社(かみしゃ)
前宮
本宮に比べ観光客の訪れも少なくひっそりとしていますが、古来ここが神事の中心となっていました。それでも最近はお社の周りが観光地化され、古来の静けさがなくなりつつあります。本宮
諏訪大社は山が御神体となっているお社なのに何故か拝殿は山を背にしていない。江戸時代まで本宮と前宮の間には神宮寺と呼ばれる寺があり、この拝殿の裏手に鉄塔があってこれを拝む為にこの向きになったのだといいます。写真右手の方角に御神体のお山があります。神宮寺は明治初期に取り壊され高部地区に形成されていた寺町もこの時に衰退。現在は地名だけが残っています。
(平成25年以前の写真。現在は、支え木はありません。屋根も銅板葺きから?葺きに変わりました)
建御名方命が最初に鎮座した地と伝えられています。上社には二つのお宮があり、茅野市にあるのが前宮(まえみや)。祭祀を司る大祝の神殿(ごうどの)と呼ばれる居館があり、この辺りは神原(ごうばら)と呼ばれ、上社祭祀の中心をなしていました。諏訪大社の大祝の祖は桓武天皇の第五皇子の有員といわれています。でもこの名は史書には出てきません。1483年諏訪総領家政満親子を大祝継満が謀殺してからはこの場所を忌むようになり次第に祭祀は本宮に移る事になりました。前宮の名は武藤武美氏によれば「神の‘前’を拝く場」であり「政(まつりごと)の中心となる場所」を表しているのだとか。
十間廊で毎年行われる「御頭祭」(酉の祭り)は上社年中行事でも第一の祭儀で、本宮の例大祭の後十間廊に神輿を安置し御杖柱を置き、鹿頭、鳥獣、魚類などをお供えし豊作を祈願するというもの。昔は鹿(諏訪の神様は特に鹿がお好きらしい)や猪の頭を75頭分供え、そのうちの一頭には必ず耳の裂けた鹿があったといわれます。これを高野の耳裂け鹿といい、諏訪大社七不思議の一つでした。現在は剥製の鹿頭などで代用してます(あんまり美味しくないかも)。大社四宮の中で一番いにしえの雰囲気を醸し出しているお宮のように見受けられます。
本宮(ほんみや)は諏訪市にあり、天正10年(1582)織田信長による諏訪進攻により殆んどの建物が焼失。現在の建物は江戸時代の造営。諏訪大社建造物の中で最も古い四脚門は徳川家康寄進のものです。この正面には「硯石」と呼ばれる磐座があり、最も神聖な場所です。社殿には本殿がないのはこの為で、御柱は硯石を中心に建てられています。近くには織田信長が明智光秀を辱めたといわれる法華寺(先頃放火の為にお堂が焼失)があり、吉良義周(吉良上野介の孫。赤穂浪士の討ち入り後、改易となり諏訪に配流)が眠っています。地元の人が「上社」と呼ぶのは大抵が本宮の方です。御柱祭の時には茅野市・富士見町・諏訪市(上諏訪地区を除く)・原村の氏子がご奉仕します。
上社大祝は諏訪氏(神氏)を名乗って現人神として君臨しました。前宮にある鶏冠社は大祝の職位式(朝廷の即位式に憚ってこう呼ばれた)が執り行われたところで、大祝は神奈備石に葦を敷き周囲に簀を張り巡らした場所で3721日の精進の後に山鳩色狩衣・紫指貫の装束を着て四方を拝したといいます。職位式に使われた祭殿(?)は人が数人中に入れるような大きさで、八角の柱に囲まれ白布を巡らしたもの。ここで大祝は神長官からの神事を受けました。
大祝には大変厳しい物忌みがあり、これに背いた時は神罰があるとされていました。実際に神罰を受けたものとしては諏訪為仲の例が知られています。源義家の奥州平定の際、諏訪大祝為信は息子の為仲を出陣させました。平定後、義家は武功を立てた為仲を京に呼び恩賞を授け働くように勧めました。しかし為仲はこの時大祝に就任していたのです。大祝の職に就いている者が郡外に出る事はきつく戒められていました。周囲の反対にあいながらも自分の夢にかけようとした為仲は出立。鳥居のところで数頭の馬が倒れるなど不審な事がありましたが、諌めを聞かずになおも旅を続け、美濃国芝原で一夜を明かします。その夜。部下の中で争い事があり責任をとった為信は自害する事になってしまいます。この兄に同行していたのでしょうか。弟の為継も大祝就任から3日で頓死、同じく弟の為次も大祝就任の7日後に頓死。一族の系図にははっきり「神罰」と書き添えられ、父・為信の嘆きは深く、その後郡外不出の掟は破られる事がありませんでした。
梶の木(諏訪大社神紋)
御神紋となっている梶の木です。上社の御神紋の梶の根は4本、下社の根は5本という違いがあります。梶は諏訪では自生しません。この事は祭神が諏訪以外の地から入ってきている事を明確に表しているともいえます。(平成28年現在、境内に梶の成木はありません)
諏訪氏は次第にその趣を変え、大祝家、惣領家などと役割が分かれ、時には近づき、時には争ってきました。鎌倉時代は北条得宗家に仕えその滅亡には諏訪一族の名が『太平記』などに見られます。因みに戦国時代、諏訪家本流の諏訪頼重は武田信玄によって滅ぼされますが、その娘の子が武田勝頼でした。勝頼は一族の悲願であった諏訪家の再興を担っていましたから、その名は「諏訪四郎」「神(じん、みわ)四郎」と称していました。そしてその事が後々、武田家に帰った時に悲劇を生む事になるのです。武田の重臣達が当主としての勝頼を認めず、子・信勝に期待をしたのもその表れで、勝頼は武田家にとっては「外の人」に過ぎませんでした。そして重臣の多くが長篠の戦いで亡き信玄を追うかのように戦死してしまった後では、武田家は崩れるように滅亡への道を辿っていきます。
さて、現人神の諏訪氏に奉仕する一族の中に神長官守矢氏がいます。伝説によれば建御名方命が出雲から諏訪にやってきた時、土着の洩矢神と戦い、洩矢神は敗れ建御名方命に仕えるようになったとか。この守矢氏も元々土着神・ミシャグチをお祀りする家でした。現在、この家が守ってきた祭祀については前宮に近い「神長官守矢史料館」で見る事が出来ます。
下社(しもしゃ)
春宮
下社最初のお宮とされています。下社は古くは大和朝廷の、そして上社は出雲系の流れを汲むといわれています。下社の大祝が欽明天皇朝の金刺宮と同じ名を持つのはやはり何か関係があるのでしょうか。秋宮
左手に寝入り杉、正面は神楽殿。神楽殿にもお賽銭箱がありますが、やはり地元の人は後ろの幣拝殿に参拝していますね。(平成25年以前の写真。改修工事後は神楽殿に扉がつきました)
下社にも二つのお宮があり、妃神・八坂刀売命は2月1日から7月31日まで春宮(はるみや)で、8月1日から1月31日まで秋宮(あきみや)で過ごされます。遷座祭は2月1日と8月1日の年2回。旧暦では元旦、そして8月1日でした。2月は諏訪で一番気温が低い時期になるので雪が降る事が多く、観光客も多くありません。その代わり8月の「お舟祭り」と呼ばれる遷座は賑やかなものです。この遷座はその年の御頭郷(おんとうごう、おとうごう。担当地区の事)の氏子さんが奉仕します。翁と媼の人形を乗せた青柴で作ったお舟を春宮から秋宮へ遷すというもの。これはお祭の中でも古い様式を伝えるものといわれています。平成10年(1998)の御柱祭の年の御頭郷は下諏訪町が務めたのですが、その中の若者達が作ったのが「秋宮の境内を三回まわる会」。何でも昔は秋宮に着いたらお舟で境内を三回まわったそうで、この年も昔ながらに三回まわろうという事になったのだそうです。春宮は毎年1月14日に筒粥神事が筒粥殿で執り行われ、その年の農作物の出来を占います。
下社は古くは宿場町として栄えた場所に位置する事から、交通の便もよく駅からそんなに遠くありません。地元の人が「下社」と呼ぶのは大抵が秋宮の方。ここには日本一大きい狛犬があります。御柱祭の時には諏訪市(上諏訪地区)・下諏訪町・岡谷市の氏子がご奉仕します。そして目につくのは神楽殿にある注連縄。これは出雲の流れを汲んでいます。
下社の大祝は名族・金刺氏が勤めていました。金刺という名は欽明天皇の時代に金刺宮が見えていますから、金刺氏も古い氏族という事になります。しかし下社は中世に上社に滅ぼされてしまった為、詳しい資料が残っていません。金刺氏も上社大祝と同様、中世には出身地を示す「諏訪」氏を名乗っていました。鎌倉時代には幕府に仕え、鎌倉幕府滅亡に殉じた諏訪武士も多かった事は前述の通りですが、一方で新しい勢力に従う者もいたという事を述べておきましょう。実は足利氏に従って都に上った武士の中には下社系諏訪氏の人物の姿を見る事が出来るのです。京都下京区の諏訪神社は彼らが勧請したと考えられるお社であり、諏訪明神と建御名方命が祀られ、諏訪では同一と考えられている神が二柱、名を変えて同時に祀られているのです。諏訪での金刺氏の室町時代の活躍は余り知られていません。永正15年(1518)下社大祝金刺昌春は上社方の諏訪頼満らに敗れ、大祝家は滅亡。その上社が武田氏の支配下となると、武田氏を頼り「諏訪」の氏と領地を与えられた事がみえます。しかし旧領に復す事も出来ないまま武田氏滅亡以後は子孫は絶えたようです。江戸時代での祭事は大祝家の分流・今井氏(武居祝)などが執り行っていましたが、大祝を立てる事はありませんでした。近くには木曽義仲の家臣で四天王の一人手塚太郎光盛の城址があり、また『唐糸草紙』で知られる、唐糸・万寿姫の供養塔もあります。
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