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王様列伝

第49代/光仁天皇
(709.10.13〜781.12.23)
天智天皇皇子の志貴親王の子で生母は紀橡姫。皇后に井上内親王。名は白壁という。別名後田原帝。在位770年〜781年。

白壁王は始め百済系の和新笠を迎え、能登・山部・早良という3人の子供を儲けている。能登は同じ天智系の皇族である市原王に嫁ぎ、山部は官僚への道をそして早良には仏への道を歩ませている。既に成人に近い子供達の父である彼が、更に正妃に迎えたのは聖武天皇の第一皇女の井上内親王である。幼くして斎宮に立ち伊勢に赴いていた彼女が白壁王と婚したのは政治的な配慮があったからだろう。白壁王は天智系であり皇位継承に意欲的ではない無難な皇族として見られていたのだ。しかしこの結婚は彼に皇位を近付ける布石となっていく。

女性として初めて皇太子となり、そのまま即位した孝謙称徳天皇は常に皇位継承をめぐる政争と対峙していなければならなかった。天武(聖武)系の直系を持つ女帝と、後嗣を狙う皇族達の水面下の争いは血生臭いものがあったのである。そんな中、白壁王はこうした争いから外れた保身の道を選び「酒を縦にして迹を晦
ま」していたという。しかし後嗣を決しないまま女帝が亡くなると、藤原(式家)の良継・百川兄弟らは白壁王を推した。左大臣藤原(北家)永手は天武系・天智系両統の血筋を持つ他戸親王に皇位が受け継がれる事を視野に入れ、良継・百川を支持。これにより白壁王は皇太子となった。この時右大臣吉備真備は臣籍降下していた文屋浄三を、ついでその弟の文屋大市を推していた。これを強引に押さえ込む形で白壁王の擁立が成ったのである。この事により壬申の乱以来約100年間続いた天武天皇の皇統は途絶え、天智天皇の皇統が復活する。

即位した白壁王は62歳。正妃の井上内親王は皇后となった。白壁王の子供達は親王・内親王宣下を受けたが、その中でも井上内親王腹の酒人内親王が三品となっており長子だった山部親王の四品よりも高位にある事が注目される。また内親王腹の他戸親王が異母兄3人を越えて皇太子に立てられたのは、井上内親王の血に流れる天武(聖武)朝を優遇する事によって氏族の不満を慰撫していた事を暗示させている。しかし772年、井上内親王は巫蠱の罪に問われて皇后を廃され、他戸親王もその位を追われてしまう。これは藤原式家の百川らの謀略といわれる。式家は山部親王に近づきその娘を嫁がせていた。既に吉備真備はその地位を辞し、藤原永手は前年に急死しており、朝堂には即位に際して重要な役割を果たした藤原式家の兄弟が頂点に立っていたのである。廃された他戸親王に代わって皇太子となったのは山部親王であった。そして井上母子は京から遠く離れた地で同日謎の死を遂げる。

白壁王がこの事柄をどう思っていたのかは分からないが、少なくとも実子である山部親王に対しては何らかの危惧のようなものを思っていたのではないか。山部立太子に関しては始めそれを拒んでいる。しかも母・井上内親王の死により伊勢斎王を解任された酒人内親王を皇太子にと推していたのは他ならぬ白壁王自身だった。他にも山部親王の卑母を理由に彼の異母弟で県女王腹の稗田親王を推す者もあった。結果としては百川の座り込みの粘り勝ちで山部親王の立太子を許す事になるのだが、山部の実子が幼いとはいえ仏道に入っていた早良親王を還俗させてまで皇太弟に立てているのが興味深い。しかし早良親王の立太子は後日思わぬ兄弟の対立を生む事になる。

白壁王は在位中に前朝で無実の罪で追われた者などの復位、官僚の入れ替えを行い、緊縮財政を敷き政治の建て直しをはかった。781年4月3日に病の為に山部親王に譲位し、12月に崩じた。御陵は田村東陵(奈良)。



第50代/桓武天皇
(737〜806.3.17)
光仁天皇の第一皇子で生母は和乙継の娘・皇太夫人高野新笠。同母姉に能登内親王、同母弟に崇道天皇(早良親王)がいる。皇后に藤原(式家)乙牟漏。名は山部といい、乳母の山部子虫の姓からの命名と考えられる。別名は柏原帝。在位781年〜806年。

山部の転機は父・光仁天皇の突然の即位である。天武(聖武)系王朝にあって、天智系の流れを汲む皇族は既に政治の表舞台から姿を消そうとしていた。しかし光仁天皇は称徳天皇の異母姉である井上内親王を正妃に迎えていた事で、他の天智系の皇族に比べて待遇は良かったらしい。称徳天皇は女帝として常に後嗣の問題にさらされていたが、その時世を良く見ていたのは藤原式家の百川である。百川は兄である良継を補佐する形で、山部との接近を果たし遂に光仁天皇の擁立に成功する。後に山部が藤原氏の中でも特に式家を尊重するようになるのはこの恩にもよるのであろう。実際に式家の血筋を汲む大伴親王(後の淳和天皇)と高志内親王の結婚はその現れで、後々はこの2人をもって皇位を継承させようとしていた節もあるようなのだ。

770年11月に父天皇の即位により親王・四品を賜う。この時の年齢は33歳くらいなのだが、彼にはまだ正妃の姿はない。これは山部に娘を差し出す氏がなかったのか、それとも自らが特定の女性を娶るという事をあえてしなかったからなのか分からないが、この後彼は次々に妃を迎えているところが興味深い。しかし実母が百済系の卑母であった事は何らかのコンプレックスになっていたのではないか。妃に迎える女性には百済王家の姿も多い。そして自身の子供達には兄妹婚が目立つ。また、後に大伴一族らが排斥されている事をみると、昔ながらの名族をあえて退け新興貴族らを周囲に置く事によってその出自へのコンプレックスをカバーしていたのではないかと考えられてならない。また後に生母である新笠に贈られる事になる「高野朝臣姓」の「高野」は前朝最後の天皇である称徳天皇を連想させる。女帝は高野に葬られた為、別名を高野姫、高野天皇などと呼ばれるのだが、普通は天皇に関する名をあえて与えるという事はしないであろう。それを新笠に与える事は何らかの示唆があるのだ。

37歳の時、異母弟で皇太子となっていた井上内親王腹の他戸親王が廃された事を受けて立太子。だが山部に不満を持つ氏族は少なくなかった。即位後、直後に起った氷上川継の謀叛はその現れだった。784年にかねてからの希望を叶えて長岡に遷都するが、寵臣藤原種継が射殺。この事件は皇太弟であった早良親王を廃するまでに発展した。父天皇の願いにより皇太弟に立てられた早良親王は、元々仏道に帰依していた事から南都の大官寺には影響力があった。しかし山部はこの寺という勢力の政治への介入を恐れていた。以前称徳女帝の元で僧・道鏡が力を伸ばしていたという世界を見てもいる。しかし長岡遷都により、新京に移転出来なかった仏寺は不満を持ち「親王禅師」と呼ばれていた早良親王を頼みにしていたようなのである。また政治的にも兄弟の間には考え方の相違があり、それが山部の実子に皇位を渡したいという骨肉の争いにまで発展していったと考えても良い。早良親王は無実を叫びながら配流先途上で憤死したが、以後山部は弟の怨霊に怯え始める。また悲運のうちに世を去った井上母子の怨霊をも気にかけるようになる。遷都10年余りで長岡を捨て、京を平安に遷したのは怨霊故との説もあり、後に早良には「崇道天皇」の名を贈り墓を淡路から大和へと移してもいる。

山部は律令制度の刷新を断行。また坂上田村麻呂に命じて蝦夷を討たせて天皇の権力を拡大するなど律令政治中興の祖ともいわれる。丑年生まれ故に牛の死を恐れ、791年・801年に出された殺牛祭神の民間信仰を禁止したという。御陵は柏原陵(京都)。



第51代/平城天皇
(774.8.15〜824.7.7)
桓武天皇の第一皇子で生母は藤原(式家)良継の娘・皇后乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇・同母妹に高志内親王がいる。贈皇后に藤原(式家)帯子。名は始め小殿といったが安殿に改めた。別名は奈良帝。在位806年〜809年。

藤原種継暗殺事件に関わり有として位を廃された叔父の早良親王の後を受けて皇太子となった。幼少より病弱で、たびたび井上内親王や早良親王の怨霊に悩まされる事があり、この原因を作った父天皇に対する情は複雑なものがあったようである。桓武天皇の薨去をうけて806年に即位。冗費節約・人員整理など緊縮政策を行い、政治改革にも意欲的で「古先哲王といえども及ばざるところあり」とまで賞賛された名君であったが、病身の為在位3年余りにして譲位し、同母弟の嵯峨天皇が即位した。

藤原(式家)種継の娘・薬子を寵愛し、一時父天皇により遠ざけられたが天皇位につくや否や宮中に呼び戻している。薬子は元々安殿の後宮に入った娘について宮中に入ったが、そこで安殿の心を捉えた女性であった。父・種継の射殺以降、それまで桓武天皇の寵臣として存在していた姿が次第に薄れていく事に不満を持っていたといわれ、それが政治介入に繋がっていったようでもある。しかしそのような事はさておき安殿にとっては第一の女性であった事は間違いない。薬子に溺れる彼に、父天皇が危惧して異母妹の朝原内親王・大宅内親王を嫁したが、2人の内親王ですら薬子の存在を消す事は出来なかった。因みに即位早々に彼は皇太子時代に亡くなっていた藤原帯子に皇后位を贈り、皇后を立てない事を示している。

在位中にあった伊予親王の事件は、藤原南家を衰退させた事から薬子とその兄・仲成の陰謀ともいわれている。しかし一方で父天皇に鍾愛されていた異母弟へ思いが幽閉・絶食・そして自害という結果を招いたのではないか。譲位後、薬子と仲成は上皇の重祚と平城遷都を企て嵯峨天皇と対立、薬子の変を招く。810年9月挙兵するが失敗し、仲成は射殺、薬子は毒を仰いで自害し安殿も落飾。嵯峨天皇の皇太子に立てられていた高岳親王もその位を廃された。高岳親王はその後落飾し、唐へ渡り天竺に向かう途中で消息を絶つという波乱な人生を送る事になる。安殿は後に嵯峨天皇と和解するが平城宮に住み続けここに没した。後に歳の離れた異母妹・甘南備内親王を妃に迎えているが、これは薬子の姪によるものか。空海につき天皇としては初めての灌頂を受けている。御陵は楊桃陵(奈良)。



第52代/嵯峨天皇
(786.9.7〜842.7.15)
桓武天皇の第二皇子で生母は藤原(式家)良継の娘・皇后乙牟漏。同母兄に平城天皇・同母妹に高志内親王がいる。皇后に橘嘉智子。娘の正子内親王は淳和天皇皇后。名を賀美能、神野という。在位809年〜823年。

神野には幼くて聡敏で不思議な霊気が立ち込め、天子としての器量があったと伝えられる。因みに名の賀美野に関しては791年に乳母・大秦忌寸浜刀自に「賀美能宿禰姓を与える」という記述があり、当時の風習からしてみて自分の名を乳母の氏に与えるという珍しい例として知られている。因みに神野山(奈良県)の神野寺では嵯峨天皇の御名2字を賜りこれを寺号としたというものも見え、年代は分からないものの、万葉仮名などの読み方という訳ではなく改名による表示が「賀美能→神野」となったと見る方が良いのかもしれない。

兄・平城天皇の即位に伴い立太子。同等の格の皇子達(大伴親王・伊予親王)がいる中での彼の立太子は当然の事だったかもしれない。兄天皇が病を理由に3年余りで譲位しそれを受けて即位。しかし即位後僅か1年で兄上皇の重祚を企てた薬子の変が起り、これを制圧。この時、皇太子となっていた高岳親王(父は平城上皇)を廃し異母弟の大伴親王を立てた。この後約30年間神野の権威と指導のもとに太平が続き文化が栄えた。律令政治の整備の為に編集された「弘仁格」「弘仁式」、年中行事の次第を定めた「内裏式」を始め、漢詩集も撰進。平城朝に停廃された諸行事を復活させ、礼法・服色・宮殿・諸門の名を唐風に改めてもいる。自らも詩文に優れ、また書では空海・橘逸勢らと並ぶ三筆の1人として名高い。一方、正倉院の歴史の中ではその権威をもってした行為は歴代天皇の中でも一番だったらしく「最も強引に正倉院の宝物を出蔵した暴君」なのである。恐らく織田信長以上なのであろう。神野は妃の数も多かったが、子沢山でも知られている。「本朝皇胤紹運録」によればその数は50名にも及び、その一部は源姓を与えて臣籍に降下させている。これを嵯峨源氏という。神野を良く補佐した人物といえば藤原(北家)冬嗣であるが、源姓とはなっているものの神野の娘が降嫁している。

823年に異母弟・大伴親王に譲位。しかし神野の持っていた余りにも大きな権威の損失は、その死後まもなく皇位継承をめぐる「承和の変」を生み、藤原北家を台頭を招く事になった。御陵は嵯峨山上陵(京都)。



第53代/淳和天皇
(786〜840.5.8)
桓武天皇の第三皇子(諸説あり)で生母は藤原(式家)百川の娘・夫人旅子。贈皇后に高志内親王、皇后に正子内親王。名を大伴という。在位823年〜833年。

嵯峨天皇の御世に起った薬子の乱平定後、廃された甥の高岳親王に代わって立太子。後、嵯峨天皇の譲位により即位。上皇の同母妹・高志内親王を正妃に迎えていたが既に病没していた為に皇后位を贈り、その後に正妃になっていた上皇の娘・正子内親王を皇后に立てた。大伴は兄上皇との穏便な関係を築こうとしていたようである。高志内親王腹の第一皇子・恒世親王は大伴の践祚翌日に皇太子に指名されるも、これを辞し、代わって皇太子となったのは嵯峨上皇の第一皇子で正子内親王の双子の兄である正良親王であった。この事柄からも大伴一家が常に嵯峨上皇の顔色を伺っていたかを考える事が出来るが、上皇にとって大伴は信頼に足る人物であった。因みに恒世親王は826年に20歳の若さでこの世を去っているが、実母高志内親王もまた若くして亡くなっているところを見ると元来病弱だったのかもしれない。即位時に同じ名を持つという事から大伴氏が伴氏に氏名を改めている。

即位後は清原夏野を登用し、政治改革を行い、また検非違使を整備。上総・常陸・上野を親王任国に定め勅旨田を置く事によって皇室財政の強化をはかった。「日本後紀」の編纂の継続させた他、「経国集」「新撰格式」「令義解」などを撰述。833年に皇太子正良親王に譲位し、淳和院に住んだ。淳和院は西院とも呼ばれた。追号の由来はここにある。遺詔により西山嶺にて遺骨を粉砕して散じられた。歴代天皇の中では唯一の散骨体験者という事になろうか。

正良親王即位にあたり、皇太子に立てられたのは正子内親王腹の恒貞親王だった。嵯峨上皇は余りにも大きな権威を持ち過ぎていた。大伴存命中、保たれていた関係は大伴の薨去の約2年後に破られる。嵯峨上皇の崩御。橘氏や藤原氏の思惑の中、上皇の脅威という重しがなくなった朝堂では皇位継承を巡っての「承和の変」が勃発し、恒貞親王は皇太子を廃されてしまう事になる。代わって歴史は前期摂関制と呼ばれる時代を迎え、その頂点には藤原氏が立ち、平安時代のゆったりとした時を作っていく。御陵は大原野西嶺上陵(京都)。火葬塚(京都)。


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