このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

夢幻のかなたに
王国に住まう王侯貴族の皆さんはこんな方々です。


安積親王
728〜744.閏1.13)

聖武天皇の第二皇子(諸説あり)。母は夫人県犬養広刀自。同母姉に井上内親王、不破内親王がいる。光明皇后所生の皇太子が幼年で亡くなり、その後皇子の誕生が見られなかった事から、安積親王は聖武天皇直系の唯一の皇子となった。しかし朝廷は藤原広嗣の乱勃発を機として数年の間平城京外を彷徨い、難波宮行幸があった744年の閏1月、安積親王は脚病の為に桜井頓宮から恭仁宮に戻り没す。その急死には政治抗争に巻き込まれたが故の暗殺と見る説がある。墓は京都相楽郡和束町の和束墓。


安積親王の母は藤原不比等の正室となった県犬養橘三千代の縁者の県犬養広刀自である。広刀自と三千代の娘・安宿媛(後の光明子)は霊亀2年(716)に首皇太子の後宮に入った。そして広刀自は安宿媛に先んじて井上女王を生んでいる。神亀元年(724)2月に元正天皇の譲りを受け、首皇太子が聖武天皇として皇位につくと広刀自は夫人となり、所生の井上女王・不破女王は内親王の位を与えられた。しかし既に僅か5歳で斎内親王として卜定が決まっていた井上内親王は安積親王が生まれる前年に伊勢に下向しており、これ以降も姉弟は会う事はなかった。光明皇后が生んだ基王は幼年のまま神亀5年(728)に亡くなり、その後聖武天皇に皇子の誕生がなかったことから在世する唯一の男皇子としての立場は微妙であった。

天平10年(738)、異母姉であり藤原氏の血をひく阿倍内親王が史上初の女性皇太子に立つと、ますます安積親王は微妙な存在となった。安積親王の周りには知らずと新興貴族である藤原氏に対抗する古くからの貴族たちが集まり始めていた。大伴・佐伯・多治比などの面々と、藤原氏とは近い縁戚でありながらも今は政治の舞台から追いやられようとされて危惧感を募らせていた橘の氏らである。天平12年(740)九州で藤原広嗣が失政と僧・玄昉と下道真備を糾弾する内容の上奏文を提出し挙兵すると天皇軍はこれを平定。しかしその一方で聖武天皇は天平17年(745)5月に至る5年ほどの間、平城京を出て宮を作り、それを捨ててはまた別の地へと彷徨う事になる。この時期、安積親王は藤原一族の中でも北家の八束(後の真楯)や市原王、大伴家持らとの交流があった事が分かっており、八束の家で宴をした事や活道岡の松下で宴飲した事が家持の歌から垣間見る事が出来る。

聖武天皇が難波宮に行幸を決めた天平16年(744)の閏1月11日。この日、行幸に従っていた安積親王は俄かに起った脚病の為に桜井頓宮から恭仁宮へ戻った。そして同13日に17歳という若さで急死する。これは藤原仲麻呂と、宮中の雑事及び後宮に多大な影響をもっていたその正室・宇比良古(袁比良女)による毒殺であったとも言われる。安積親王の死により、井上内親王はその役を解かれ、春頃に帰京したようである。


*安積親王に思うこと*


活道(いくじ)の岡に宴した春 
彼(か)の君は17
私は27
市原王さまと寿歌を詠んだ
官位は低かったが
夢はあった


これが拙本で大伴家持が安積さんを回想した時の台詞です。「活道の岡に宴した春」とは安積さんが亡くなるちょうど1ヶ月前の1月11日の事でした。そこで市原王は「一つ松幾代か歴(へ)ぬる吹く風の声の清きは年深みかも」と詠み、家持は「たまきはる寿(いのち)は知らず松が枝を結ぶこころは長くとぞ念ふ」と詠んでいます。家持による安積さんへの挽歌は何首もありますが、彼のお墓のある和束で改めて目にしてみたいですし聞いてみたいですね。それだけ彼に対する深い想いと主従の関係や年齢を越えた友情みたいなものを感じるのです。

奈良朝末期・平安朝初期の家持は老年の域に入り、大伴氏の行く末を考え政治家としてのシブイ顔を持っています(どれくらい手腕が発揮されていたのかといえば「・・・」ですが)。でもこの時はまだまだ政治の舞台からは放っておかれても別の大伴一族の誰かが取り合えず足を踏み入れてくれればいい、私はまだまだ遊びたいし学びたいのだからというようなところがあったと思っています。でも親王の死はそれが藤原仲麻呂の暗殺によるともいわれているように謎が多く、当時でも原因究明がなされる事なく「病死」として処理をされていた筈。そこに家持は大人の世界の醜さみたいなものと向き合い、人生が変わったんじゃないだろうかと思う事があるのです。

ももかの中の安積さん像はみずらを結った姿。彼、何となくですが加冠が先延ばし先延ばしにされていたように思えるのです(光明皇后&仲麻呂の狙いで)。そして妻帯はしていない筈。家持あたりは一族の娘をと考えていたと思うのですが謙虚な彼はフリーなのが一番!と思っていたりするのです。でも藤原氏の中でも四家が対立してくる時分になるとそろそろ各家でも現・皇太子である阿倍ちゃんが未婚で終わる事を見越して適当な娘を物色していたとも考えられます。
そんな微妙な立場の安積さんを父親である聖武天皇はどう見ていたか。紫香楽京・恭仁京にかける熱意は並ではありませんでしたから、心の奥底では阿倍ちゃんの次の天皇としての京を用意してあげたいと思っていたのではないかと思います。それは藤原氏によって固められた平城京ではなく、自らが作り上げた紫香楽京であり恭仁京なのです。難波でも良かったかもしれません。

斎王となり伊勢に下った長姉の井上内親王とは一度も会う事はありませんでしたが、彼は姉の為に薬師経一巻千手経一巻を施写しています。また次姉の不破内親王の夫君・塩焼王は罪ありとして平城の獄に下され、伊豆に流されてしまいました。恐らくこの時、不破内親王は母親である広刀自の元に帰り安積親王と過ごしたと考えています。あくまでもイメージでしかないのですが、前向きで明るくて姉思いの彼の存在は(あの)不破ちゃんにとっても心休まる存在であった事でしょう。それが故に不破ちゃんが仲麻呂の手によって安積親王は暗殺されたのだという噂を耳にした時、反仲麻呂・反藤原氏そして反阿倍内親王の一念に凝り固まっていったとしても不思議ではないのです。



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