このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

夢幻のかなたに
王国に住まう王侯貴族の皆さんはこんな方々です。


藤原広嗣
生年不詳〜740.11.1)

藤原(式家)宇合の長男。藤原四兄弟の病死の後、朝堂での力を強めていった橘諸兄・玄昉・下道真備(吉備真備)らによって、広嗣は大宰少弐へと左遷される。天平12年(740)8月、広嗣は赴任先の大宰府において玄昉と下道真備を政事から除く事を聖武天皇に上奏し、その返答を受け取らないまま翌9月に挙兵。しかし豊前の板櫃川の戦いで敗れ、10月肥前国松浦郡値嘉島長野村で討伐軍の大将軍・大野東人が率いる兵に捕らえられ翌月斬首された。


藤原広嗣は、藤原不比等の三男宇合の長男にあたる。藤原式家の出身で、光仁朝で活躍する良継・百川はそれぞれ異母弟である。神亀6年(729)2月、藤原氏は聖武天皇の皇后として藤原光明子の擁立を模索しそれに意義を申し立てていた右大臣・長屋王を滅亡に追い込んだ。そして朝堂における政権を手に入れ念願の藤原氏初の皇后擁立を果たした。しかし、大陸から伝来した天然痘により武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟はあえなく没し、その息子達もまだ政界での力が弱かった事から、藤原氏に代わって権力を得たのは、藤原不比等の娘を正室に迎え、また皇后・藤原光明子には異父兄にあたる橘諸兄であった。

広嗣についての叙位の記録は余り残っていないが、天平9年(737)父・宇合の死後約20日目後に従六位上から従五位下に叙せられた事が知られている。一方、その翌年、右大臣となった橘諸兄は唐から帰国した
僧・玄昉と下道真備(後の吉備真備)を迎えて天然痘流行後の国政の建て直しをはかっていた。かつての藤原一族の繁栄を目の当たりにしてきた広嗣は、複雑な思いを抱えてこの人事を見ていた事であろう。そして天平10年(738)、式部少輔や大養徳守を兼ね藤原一族の中では栄達順風に見えていた広嗣は、12月4日に大宰少弐に叙せられた。左遷である。

彼が大宰少弐に叙せられた理由は「もともと凶暴なところがあり、長じた後も企みを働かせている。父である式部卿が生きていた頃は父親すらも除こうとしていたけれども叶わなかった。今もその存在が京中にある事で親族に対して良い影響は与えないから、遠くに遷して心を改めようとさせた」為であった。当時の大宰府は、長官である帥は欠員で、大弐兼右中弁の高橋安麻呂も現地には赴任していなかったと思われ、大宰府に赴いた広嗣は最高権力者として九州全土の軍事力を掌握する事になる。

2年後の天平12年(740)8月29日、広嗣は天地の災異と橘諸兄らによる失政を玄昉と下道真備を名指しで糾弾する上奏文にこめて聖武天皇へ奉った。しかしその返答も受け取らないうまま翌月3日、挙兵する。それを耳にした天皇軍は大野東人を大将軍に紀飯麻呂を副将軍に任命。五道の17000人を動員した討伐軍を差し向けた。9月22日初めて彼らは戦闘態勢に入り歴戦を重ねる。しかし10月9日豊前板櫃川で対陣した広嗣軍は大敗し、ここに広嗣の逃走が始まる。23日肥前国松浦郡値嘉島長野村にて、無位阿倍黒麻呂に捕らえられた彼は翌月処刑された。

この乱においての死罪は26名、流罪は47名に及び、広嗣が着任していた大宰府は一時廃止となった。しかし朝廷への影響も大きかったといえる。聖武天皇はこの乱を機に伊勢行幸・恭仁や紫香楽への遷都を計画しては平城京外を彷徨い天平17年(745)までの約5年の間平城京に戻る事はなかった。また乱後台頭してきたのは、いつしか皇后藤原光明子の傍らにたって力をつけてきた広嗣の従兄弟・南家のプリンスである仲麻呂である。仲麻呂は橘諸兄のブレーンたちを排斥していった。名指しで糾弾を受けた
玄昉は天平17年(745)筑前観世音寺に左遷、翌年没した。また皇太子・阿倍内親王の東宮学士となりその地位も万全かと思われた真備も仲麻呂に疎まれるようになり、阿倍内親王の即位の翌年に筑前守に左降。ついで肥前守となっている。一説に真備の左遷は広嗣の怨霊への配慮ともいわれている。

*藤原広嗣に思うこと*

式家のおにーさま、なんですよね〜。広嗣さんは。彼というと『万葉集』の中の一首「この花の一節のうちに百種(ももくさ)の言ぞ隠れるおほらかにすな(この桜花の一枝の中に君を想う私の様々な言葉がこもっているよ。おろそかにしないでおくれね)」を思い起こしてしまいます。クーデター首謀者にしてあの(←これ強調)良継・百川ブラザーズのおにーさまとは思えないラブラブで気障でロマンティストな歌ですよね。これを見るととても「凶暴」であったとは思えないのですけれど、きっとやるせない思いがふつふつと彼の中にはあり呑んだくれて暴れて手がつけられない事が目に余ったのかもしれません。でもクーデターが失敗した後、弟達がその煽りを食らって一時式家は衰退するとは思わなかったでしょうね。仲麻呂さんは力をつけましたが。・・同じ藤原だから良いのか?!せめて百川さんが近くにいればっ。でも8男の百川さんが実力を発揮するのはまだまだ先だし〜。
広嗣さんというと、後世には御霊の一柱。彼にお会いしたくて訪れた奈良の南都鏡神社の紅葉は空の青空にくっきりとした赤い葉をつけていたのが思い出されます。すぐ側の新薬師寺には沢山の参詣者が門を潜っていくのに、こちらは本当にひっそりとしていて。でもまたそのひっそりとした空間が良かったのです。
また行きたいなあ。


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