このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

夢幻のかなたに
王国に住まう王侯貴族の皆さんはこんな方々です。


伊予親王
生年不詳〜807.11.12)

桓武天皇の第三皇子(諸説あり)。母は藤原(南家)是公の娘・夫人吉子。父・桓武天皇鍾愛の皇子であったが、平城天皇の御世に謀叛の罪により捕らえられ、母共々幽閉、親王位を廃される。飲食を断たれ、毒を仰いで自害。管弦に優れた事が知られている。後に復位し一品を贈られている。陵墓は京都府伏見区の巨幡墓。

伊予親王はその生年が不詳である為に異母兄弟にあたる賀美能親王(後の嵯峨天皇。母は皇后・藤原式家乙牟漏)や大伴親王(後の淳和天皇。母は夫人・藤原式家旅子)との間にどの位の年齢の幅があったか分かっていない。延暦11年(792)2月に加冠。以後、三品式部卿となり大同元年(806)には中務卿兼太宰帥にも任じられている。皇太子であった異母兄・安殿親王が病弱であったゆえか、父・桓武天皇は伊予親王に並々ならない愛情を注いでいたようである。遊猟や巡行の際にはしばしば伊予親王第や山荘に行幸した記録が残っている。しかし桓武天皇の崩御し、安殿親王が平城天皇として即位すると謀叛の罪を被り捕らえられた。

事のあらましは藤原宗成が伊予親王に謀叛計画をもちかけた一件にあった。大納言藤原雄友はそれを耳にすると右大臣藤原内麻呂へ告げ、親王もその謀叛の内容を平城天皇に奏上したのである。しかし宗成を取り調べると、この謀の首謀者は伊予親王であると申し立てた為に、親王は捕らわれの身となったのだった。これは伊予親王に矛先を向け、平城天皇の側近の中の対立相手の排除と皇太弟・賀美能親王勢力を抑える為に藤原仲成が意図的に起こしたものであったといわれる。11月、親王と母・吉子は大和国城上郡川原寺に幽閉、飲食を断たれた。11月11日に親王の位を廃され、翌日母子共に毒を仰ぐ。この事件により吉子の実家である藤原南家は、仲麻呂(恵美押勝)の没落以後、一時勢いを盛り返していたにも関わらず、衰退していく事になる。因みにこの事件に関わった藤原雄友、藤原乙叡、藤原宗成らは配流となっている。

伊予親王は嵯峨朝の弘仁10年(819)に至り親王号を復し、後に三品中務卿に復位。承和6年には一品が贈られている。


* 伊予親王に思うこと *

伊予さんはまだももかにとって未知なる方だったりします。この時代の藤原氏の政権の流れが掴めないと、何故に伊予さんが罪に問われなくてはならない危険な立場の皇子だったのかが語れないんですよね。だって桓武天皇の子供って凄く多いじゃないですか。競争相手が一杯だった訳ですもの。そしてももかは仲麻呂以降の藤原南家をよく知らない(今のところ)んですよ。勉強しなくちゃ。
伊予さんを用いたオリジナルストーリーに、実は朝原内親王との絡みがあるものがあります。朝原内親王は伊予さんの異母妹で伊勢斎王となったお姫様で実は前王朝の聖武天皇の直系の子孫にあたります。彼女が桓武天皇の御世に斎王に立てられた事はそれなりの意味があります。そして彼女は16歳の時に何の理由もないまま、帰京しています。結婚適齢期であった朝原内親王は長兄である安殿親王の妃となりますが、その実他にも候補はいたんですよ。賀美能親王、大伴親王、伊予親王。父・桓武天皇は朝原内親王を一番力を必要としている皇太子に嫁がせたという事にもなるんじゃないかなと思うわけです。
私の中の伊予さんは帰京した純粋な瞳を持つ朝原さんに一目惚れをし、ラブコールを送っていたという事になっています。でもそんな2人に運命は過酷な試練を与えるのでした・・って感じなんですよ。
各地の御霊神社の中に伊予さんの名を見る事がありますが、どちらかといえば京都の方が多めかもしれません。伊予さんも六所御霊。平安初期の人々が彼に対する贖罪を見つけにまた散策出来たら良いな。














































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