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文室宮田麻呂
(生没年不詳)
名を宮田麿、宮田丸とも書く。平安時代前期の官僚で、仁明朝に筑紫守となり任地に赴いたが、新羅人・張宝高との交易を官人でありながら行っていた事を咎められ、職を解かれた。宮田麻呂はその後も筑紫で交易を続けるが、承和10年に新羅商人と氾濫を企てたとの讒言を受け、伊豆に流罪。その地で没した。
姓は「ふんや」と読み一般的には文室の字をあてる。その生年没年共に不詳であるが、承和年間の記録が残っている事から、仁明天皇の御世の官僚という事になる。宮田麻呂は承和7年(840)に筑前守となり、任地に赴き、その地で新羅人・張宝高と知り合う。張宝高は天長元年(824)に清海鎮大使に任ぜられ、朝鮮半島西南海域の莞島に設置された清海鎮を本拠地として海賊の取り締まりを勤め、その傍ら唐や日本との海上貿易に従事していた人物である。しかし、承和の当時は日本と新羅の国交が絶たれていた。張宝高も承和7年(840)12月に使者を大宰府に送り朝貢を申し出たものの認められなかった。民間でのみという条件のもと交易が許されたのは翌承和8年3月。宮田麻呂は官職にありながらも張宝高と交易を行い、それを咎められ解任されたのである。
承和9年(842)の宮田麻呂を表す言葉は前筑紫守である。官職を解かれても、彼はそのまま現地に留まり新羅の廻易使・李忠らと折衝を重ね、今度は私的に貿易を行っていた。しかし翌年従者の陽侯氏雄から新羅人と結託して謀叛を企てたとの讒言を受ける。京や難波の邸宅への捜索を受け、兵具を押収され、宮田麻呂は弁明を聞き入れられないまま伊豆に配流と決まる。罪は子供におよび忠基は佐渡へ、安恒は土佐へ配流となっている。彼がその後どう生きたのか知る術はない。
宮田麻呂は『日本三代実録』貞観5年(863)5月20日条に神泉苑で行われた御霊会で祀られた御霊の一人として数えられ、人々が早い時期から彼の無実とその怨霊を恐れていた事が分かる。また近江国にも家十区の他水田数十町を所有していた記録が残っている。
*文室宮田麻呂に思うこと*
彼の資料は余りありませんでした。六所御霊の一人という事で御霊会でも早い時期に既に無実であった事が知られ祀られているのに、どういう人物かというと上手く答えられないのです。この事件は承和の疑獄といわれるそうですが、この言葉も出てこないですよね。この事件の背景には当時の日本と新羅との国交・貿易状況が重要となっているようですが・・・。
彼は伊豆に流されましたが、伊豆って結構いろんな人が配流となっていますよね。氷上川継さんもそうですし、橘逸勢さんもそう。奈良・平安前期ってあの辺りが流しやすい場所だったのかしらって思ってしまいます(^^;)。一応東国の入口にあたるから?後期になると源頼朝がいますよね〜。
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