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夢幻のかなたに
王国に住まう王侯貴族の皆さんはこんな方々です。


藤原百川
732〜779.7.9)

藤原(式家)宇合の8男。宿奈麻呂(後の良継)の異母弟。母は久米若女。始め雄田麻呂といったが光仁朝頃に改名。幼少の頃から大度があったと伝えられる。天平宝字3年(759)に叙従五位下。以後、南家の恵美押勝(藤原仲麻呂)勢力が横行する政界で、地道に昇進を重ねた。恵美押勝が乱を起こし大敗すると、称徳天皇と道鏡が政事を掌握するが、雄田麻呂はこれに接近する。神護景雲8年(771)称徳天皇が後継者を指名しないまま崩御し、雄田麻呂は左大臣藤原永手や兄・宿奈麻呂らと白壁王の擁立に成功する。白壁王が皇位についた光仁朝では従三位式部卿中衛大将まで極めたが、宝亀10年に没。贈従二位。娘の旅子は桓武天皇の夫人となり、所生の大伴親王が淳和天皇として即位した弘仁14年(823)5月、正一位太政大臣を追贈。正室に異母兄宿奈麻呂の娘・諸姉、子に緒嗣、継業、旅子(桓武天皇夫人)、帯子(平城天皇贈皇后)、孫に淳和天皇。墓は京都府相楽郡木津町。


藤原百川は、藤原不比等の三男宇合の八男にあたる。藤原式家の出身で、聖武朝で乱を起こした広嗣、光仁朝で活躍する良継はそれぞれ異母兄である。初名を雄田麻呂といい、正室久米若女を母とする。若女は宮廷に仕える女官であった。異母兄宿奈麻呂の娘・諸姉は正室。

聖武朝には裳瘡の大流行により多くの命が奪われている。朝堂を掌握していた藤原四兄弟も免れず、父である宇合が亡くなったのは天平9年(739)の事。そして天平11年(739)3月28日、実母久米若女と石川乙麻呂との不義が発覚。若女は下総へ、乙麻呂は土佐へそれぞれ流されてしまう。翌年6月15日の天下泰平による大赦で若女は帰京を許されるが、まだ幼少の雄田麻呂にとってこれらの出来事は余りにも辛い事であっただろう。そして式家には更なる大事件が起こる。異母兄広嗣が僧正玄昉と下道真備(後の吉備真備)を除こうと赴任先の大宰府で挙兵するのである。政界での藤原氏の力が弱まり、次に台頭してきたのは藤原不比等の娘を正室に迎え、皇后・藤原光明子には異母兄にあたる橘諸兄であった。国政を立て直す為、諸兄は玄昉と真備を重用したがそれに広嗣は不満を抱いていたのである。彼は太宰少弐として大宰府に赴き、そこで大きな軍事力を掌握する。天平12年の秋に挙兵した広嗣は僅か2ヵ月後に討たれる事になるのだが、この出来事が藤原一族の再起を一時遅らせる事になってしまった。式家に至っては言うまでもない。

雄田麻呂は天平宝字3年(759)に至り従五位下に叙せられた。飛ぶ鳥を落とす勢いだった藤原氏出身としてはやや遅い昇進である。同7年智部少輔。以降孝謙朝になると、橘諸兄の傍らには成長した藤原南家の長男豊成が、そしてその弟仲麻呂が姿を現した。仲麻呂は孝謙天皇に近づき恵美押勝の名を頂くが、淳仁天皇と立てる仲麻呂と、道鏡を重用する上皇は次第に対立していく。仲麻呂は天平宝字8年(764)9月挙兵し、あえない最期を遂げた。


孝謙上皇が重祚し称徳天皇となると、
雄田麻呂は内匠頭、右兵衛督、中務大輔、河内守等を歴任。法王道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡神託事件で、
虚無の神託をしたとして和気清麻呂と姉・広虫(法均尼)は配流されてしまうが、密かにこれを助け援助していたという。
雄田麻呂の名を歴史に高らしめたのは称徳天皇崩御直後の光仁天皇擁立と、山部親王立太子における策謀の鮮やかさである。女性で皇太子となりそのまま皇位を継いだ孝謙称徳天皇には自らの血をひく後継者がいなかった。その為、父聖武天皇の頃から、彼女の周辺では皇族による様々な事件や謀が絶えず、またその為多くの皇族が命を脅かされ皇位への道を断たれていたのである。宝亀元年、称徳天皇は後継者を決めないまま崩御。『日本記略』にはこの時、天皇位を巡って諸臣の対立があったと記されている。右大臣吉備真備は天武天皇皇孫文屋浄三(智努王、文屋智努)を推したという。しかし浄三に固辞された上、雄田麻呂や左大臣藤原永手、宿奈麻呂らは反発。次に浄三の弟である大市(大市王、文屋大市)を立てたものの、これもならなかった。そして雄田麻呂らは謀って偽の宣命を作り、天智天皇皇孫の白壁王をたてたというのである。雄田麻呂と異母兄・宿奈麻呂は、以前から白壁王の長子山部王に近づいていた。そして藤原永手がこの兄弟と結託したのは永手の考えに白壁王の四男の他戸王に皇位を渡すという筋道が描かれていたからである。称徳天皇の異母姉井上内親王は、白壁王と結婚し、他戸王の母となっていた。皇位は一時天智系に移っても、他戸王が即位すれば再び天武系に戻る筈であった。

光仁朝に宿奈麻呂は良継、雄田麻呂は百川と名を改めた。光仁天皇の信任も篤く、山部親王も重く用いた。同2年藤原永手が世を去り、大中臣清麻呂は右大臣、宿奈麻呂は内臣となった。雄田麻呂は大宰帥に、後、参議に任せられた。宝亀3年(772)皇后井上内親王が巫蠱厭魅大逆の罪で廃され、後に皇太子となっていた他戸親王もその位を追われた。二人は大和国に流されるが、宝亀6年(775)4月に同日謎の死を遂げている。他戸親王に代わって立太子していたのは雄田麻呂が推した山部親王であった。井上内親王と他戸親王の失脚と死は、彼の策略とも言われている。しかし雄田麻呂は山部親王の即位を見る事なく,、当時流行していた悪病に罹り従三位式部卿兼中衛大将で没。延暦元年贈従二位右大臣。弘仁14年(823)贈正一位太政大臣。

*藤原百川に思うこと*

百川さんといえば、己の野望の為には全てを駆けるようなイメージがあります。阿倍さまこと称徳天皇暗殺疑惑、光仁天皇擁立時の策謀、井上内親王と他戸親王の廃位と謀殺疑惑、山部親王立太子への疑惑などなど。百川さんは早くから山部さんに目をつけていました。それこそ、一昔前の中大兄皇子に近づいた中臣鎌足のように。

実は良継さんの娘を正室に迎えている事から、この兄弟はかなり大きく結びついているのです。父・宇合の正室でありながら、宇合亡き後そうもたたない内に不義を起こしてしまった百川さんの母・若女さん。まだ幼かった百川さんの子供心にはこの事件はどう映ったのでしょう。若女さんは宮中に仕える女官でもあり、それが配流という重い罪を背負うとなれば、藤原式家にとって大変不名誉だったように思えます。特に宇合は一時とはいえ朝堂を我が物としていた藤原四兄弟の一人であり、その子供達が抱いていたエリート意識がこの事件によってガラガラと崩れ去ったとしても過言ではないでしょう。彼はその時、自らの母を切り捨て、ある意味頼る者は自分以外いないという思いを抱えながら、1人で歩き出したのではないかと思うのです。だからこそ何でも出来た。だけれど幸いな事に、彼の傍らには良き相談相手の異母兄・良継さんの姿があったのでしょう。智謀については百川さんの方が上でしたが、良継さんは意外にも行動派で、恵美押勝の乱においてはちゃんと戦ってもいるのです。百川さんはこの式家の長である苦労人の良継さんを巻き込み、鮮やかに完璧に事を運んでいきます。そして後に、適齢の子供に恵まれなかった百川さんは、良継さんの子供達に彼の望みをかけたのです。

さて、この頃から藤原薬子の変までが藤原式家の全盛となりました。光仁天皇は、二兄弟の力を持って皇位に着いた訳でもあり、この恩義ある臣下には流石の天皇も文句も言えず、山部さんが皇太子として立つ頃には「誰も彼を止められなかった」のだと思うのです。即位直後、吉備真備は右大臣を辞しそれまで力を持っていた左大臣藤原永手が亡くなった事も、彼らの力を増長させる理由の1つでした。そういえばこの頃、吉備真備が推していた文屋浄三も亡くなっているんですよね。これは偶然でしょうか。まさか・・百川さん、貴方が・・?そして例えば、他戸親王が皇太子を廃された時、空席になったその地位に百川さんは当然の事として長子・山部さんを推しました。しかし山部さんは実母の身分が低かった上に、渡来系という血筋であり、長子とはいえ皇位継承には問題がありました。また藤原浜成は、皇族の母を持つ稗田親王を推していました。解決策として、光仁天皇は中継の天皇として女性の酒人内親王を立太子させたい旨を表しますが、それも百川さんの粘り強い座り込み作戦の為についぞ天皇が折れ、山部さんが皇太子となったという話があるのです。史実かどうかは分かりませんが、百川さんを知る上で参考になるお話です。

ももかの百川さん像は、「舌先三寸の言で多弁。泣き落としも上手。いつもにこやかな笑顔を見せているのだけれど、その眸は人の心の奥底を覗き伺う光で満ちている。自分の中にはいつも次に向かおうとする道が描かれていて、いつしかそれに周りの人を乗せてしまえる人物」なのです。先を見る事に長けているんですよね。

彼にとっての山部さんは、ようやく見つけた「大切に大切に磨き上げた宝玉」でした。その地位の重さも、王としての器量も。しかし彼の表舞台での活躍は短く、光仁天皇擁立から僅か7年で兄・良継が、ついでその2年後に自らが世を去ることになるのです。山部さんの即位を見る事なく・・・。

山部さんにとって百川さんは自らを育ててくれた人であり、彼がいなかったら今の自分はないとはっきり自覚していました。夢の為に、ずるく生きる事も良しとする。例えそれが他人の目に過ぎた野望だと映っても。しかもその上で払われた犠牲をもしっかり背負う事も忘れてはならないのだ、と。それは後に彼を苦しめる事になるのですが、壮年期の山部さんは百川さんの敷いたレールの上を一歩一歩確実に歩き始めたのです。









































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