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藤原仲麻呂
(706〜764.9,18)
藤原(南家)武智麻呂の次男。光明皇太后の信頼篤く、孝謙天皇の寵用を得て政界での実権を握った。聖武天皇の遺詔により皇太子となっていた道祖王が廃され、仲麻呂と親しかった大炊王が皇位につくと最高権力を掌中にする。しかし光明皇太后逝去の頃から、僧・道鏡を用いるようになった孝謙上皇と対立。天平宝字8年(764)9月挙兵したが敗れ、妻子らと共に勝野鬼江にて斬死。淳仁朝では恵美押勝の名を賜うが、剥奪された。
藤原仲麻呂は、藤原不比等の長男武智麻呂の次男にあたる。武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四兄弟が天然痘の為に病没すると、一時朝堂での藤原氏の勢力は衰退する。この時藤原氏に代わって力を持ったのは橘諸兄であった。しかし皇后となっていた藤原光明子の存在はまだ健在であり、仲麻呂はこの叔母の力を影にその名を上げていく事になる。
仲麻呂は幼少から秀才の誉れが高かった。書史を読み経史に通じており、また大納言阿倍少麻呂に算術を学びそれを習得していたという。その才能により早くから宮中に出仕しており、内舎人、大学少允を経て従四位下に除せられ、天平15年(743)には参議にまで昇っている。その後左京大夫を兼任し、ついで近江守となり天平18年(746)に至り式部卿兼東山道鎮撫使の従三位に除せられた。聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位するのは天平勝宝元年(749)。この孝謙朝において仲麻呂に栄達は目覚しいものとなっている。この即位の年の8月、仲麻呂は大納言となり、翌月には「紫微中台」を設置して自ら紫微令中衛大将を兼任、ついで従二位にまで昇っている。この勢いは兄・豊成をも凌ぐものであり、左大臣橘諸兄と肩を並べるまでにもなった。天平勝宝4年(752)4月の東大寺での大仏開眼供養の折に孝謙天皇は仲麻呂の私邸である田村第に立ち寄り、その後も度々行幸の記録が残る。
孝謙天皇は女性で初めて皇太子に立ち即位した女帝であった。この為、後嗣には父・聖武上皇が遺詔として新田部親王の第二子である道祖王を指名していた。しかし道祖王は聖武上皇の諒闇中にも関わらず品行が芳しくなく、それが為に天平宝字元年(757)3月皇太子を廃されてしまう。左大臣であった橘諸兄は同年正月に亡くなっており、右大臣藤原豊成や式部卿藤原永手は道祖王の兄である塩焼王(正妃は孝謙天皇の異母妹不破内親王)を、摂津大夫智努(智努王)や左大弁古麿は池田王を推していた。しかし皇太子となったのは仲麻呂に近い人物であった大炊王である。大炊王は舎人親王の子で、仲麻呂の子・真従が亡くなった後にその妻であった粟田諸姉を得ていた。その奇妙な関係の中、大炊王にとって仲麻呂は義父といっても過言ではない存在だったのである。
6月、かねてから飛ぶ鳥落とす勢いの仲麻呂に反感を抱いていた橘諸兄の子・橘奈良麻呂は彼を失脚させようと謀をめぐらせていた。この陰謀にはかつて一時その職を追われた父・諸兄への思いがあったようでもある。皇親の安宿王・黄文王・道祖王・塩焼王らを誘い、大伴古慈斐・大伴兄人・大伴古麻呂・大伴池主らの大伴一族、多治比犢養・多治比礼麻呂・多治比鷹主・多治比国人らの多治比一族、その他賀茂角足・佐伯大成・小野東人ら、仲麻呂に追いやられ不満を表していた旧貴族の面々を伴ったこの政変は、事前に発覚。首謀者の多くが杖下に倒れ、藤原乙縄もこれに関与していた事から父である右大臣豊成も大宰外帥に左遷された。この人事から仲麻呂と実兄豊成の関係は好ましいものではなかったのではという見方もある。そして右大臣すら遠ざけたこの政変ますます仲麻呂の権力を堅固なものとしていくのである。
翌年、大炊王が即位。仲麻呂は大保(右大臣)となり「藤原恵美押勝」の名を賜った。そして天平宝字4年(760)、大師(太政大臣)に任じられた。しかし後ろ盾となってきた皇太后藤原光明子が亡くなり、後宮という宮中の内側から彼を支えてきた正妻の藤原袁比良女(宇良比古)が世を去った頃から仲麻呂の栄華には陰りが見え始めてきた。上皇となり政治の世界から遠ざかっていたようにみえた孝謙上皇は、新帝と折り合いが悪く、しかも行幸先の保良宮で病に倒れた折に祈祷により看護していた僧・道鏡を寵用するようになっていた。また仲麻呂に疎まれ一時都を離れていた吉備真備は上皇の願いによってまた都に立ち返っていた。しかし仲麻呂にとって脅威に見えたのは他氏出身で僧侶の道鏡の存在である。上皇は聖武天皇直系の誇りを忘れた事はなく、それが故に新帝をも凌ぐ発言力を持っていた。天平宝字6年(762)6月、孝謙上皇は「国家の大事」と「賞罰」に関する大権を所有する事を表明し新帝を除外した。これにより上皇と仲麻呂・新帝との対立は表面化する事になる。上皇の寵愛を奪った道鏡を排除しその関係を回復する事。それが栄華の存続だと彼は考えるようになり、道鏡を除く為に軍事権を強化させていく。
天平宝字8年(764)9月2日、四畿内・三関・近江・丹波・播磨などの国の兵事の都督となった仲麻呂は、密かに召集する兵の数を自らの権限をもって倍増した。11日、自らに難が及ぶのを怖れた大外記高丘比良麻呂がこれを密告。また仲麻呂がこの大事における吉凶を占わせていた陰陽師大津大浦も上皇にこれを奏上し、仲麻呂の陰謀が発覚した。上皇軍の動きは早く、仲麻呂は宇治から近江へと走った。それを追う上皇軍は勢多の橋を焼却。渡るべく橋を焼かれてしまった仲麻呂軍はやむなく近江高島郡方面へと逃れる。この夜、仲麻呂の臥屋に甕のような大きさの星が落ちたといわれている。巨星、隕つ。仲麻呂の失墜の前兆であった。新帝を連れてくる事が出来なかった仲麻呂は塩焼王を帝として擁立し上皇軍に対抗するが、既に戦いには利はなかった。湖上を渡ろうとした船も風雨にあって転覆未遂となりこれを捨てて山道をとり愛発に赴いた。激戦の後、高島郡三尾崎に至った仲麻呂軍は数を増す上皇軍の前に劣勢となる。味方の大敗を見た仲麻呂は再び船を櫂い逃れようとしたものの、陸水双方から攻め立てられついに捕縛。勝野鬼江にて妻子らと共に斬殺された。唯一幼い頃から仏道修行に励んでいたという理由で6男の薩雄のみが助命されている。しかしこの時行動を共にしていた偽帝こと塩焼王は何れかに逃がれたとも仲麻呂と共に斬殺されたともいわれる。また位を追われた新帝は淡路廃帝などと呼ばれていたが、配流先にて謎の死を遂げている。彼に「淳仁」の名が贈られたのは明治時代になってからであった。
*藤原仲麻呂に思うこと*
ずばぬけた才能を持ち、猜疑心が人一倍強い陰謀家、そして野心家、異国趣味があってとってもインテリな南家の貴公子・仲麻呂さん。実は好きです。それがいくら安積さん暗殺説の裏張本人だったとしてもっ。ももかの中では「阿倍さまの為に生き、阿倍さまの為に滅びたインテリ唐国大好きおじさまv」なのですもの。阿倍さまというのは勿論孝謙天皇の事です。この年の離れた主君を彼は一方ならず思っているのですが、それが彼女のは全然伝わらなくて空回り。それが乗じて恵美押勝の乱に発展してしまう・・・と。仲麻呂さんに至っては「男ならこの位の野望は持って事にあたってみよ」ぐらいなところがあります。道鏡の存在がなければ結構大炊王を傀儡として祖父・不比等以上の立ち回りが出来たかもしれません。軍事権を手に入れていましたし〜。しかし、そうなると人望が少し弱かったかな〜。袁比良女さんの存在って彼にとってとても重要だったようです。いわばこの方あっての仲麻呂さんだったそうで、人望がない彼のフォローはこの方がカバーしていたみたい。仲麻呂さんってば大伴氏などの旧貴族は元より実兄である豊成さんまで敵にまわしていましたもの。そして彼に対する反感&陰謀も少ない訳ではなかったのですから。
恵美押勝の乱により、南家は暫くの間衰退します。これが一時にせよ回復するのは桓武朝になってから。しかし平城天皇の御世に起きた伊予親王事件により、伊予親王の母方の実家である南家は完全なる衰退をしてしまう事になるんですよね。
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