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安倍晴明
(921?〜1004.9.26)
安倍益材の子で、孝元天皇の皇子大彦命の後胤。奈良時代の官僚・右大臣安倍御主人は先祖でもある。幼い頃から鬼を見るなど神通力に通じていたともいわれ、陰陽道の大家・賀茂忠行の元に入り、忠行・保憲の親子に学ぶ。師である賀茂保憲は、天文道を晴明に暦道を息子の光栄に譲った。天禄3年天文博士。当時藤原氏の氏長者争いの中で力を伸ばしていた藤原道長は晴明を重用したといわれる。一條天皇の蔵人陰陽師に任じられた晴明は、天皇の側にあってその稀なる能力を発揮した。寛弘2年9月に85歳にて没。晴明の邸宅は内裏の鬼門にあり、それから僅か2年後の寛弘4年(1007)に一條天皇の勅命によりこの屋敷跡に彼を祭神とした社が建立された。これが現在の晴明神社である。母親は伝説では狐ともいわれている。また晴明は日本各地に様々な伝説を残し、『今昔物語集』などにもその奇異なる力と不思議な話が書き留められ、謎に満ちた人物として知られる。墓は京都市右京区嵯峨角倉町など。
晴明は安倍益材の子として生まれた。母親やその兄弟については不明。また出身地としては大坂、讃岐、常陸などの説がある。『臥雲日件録』に記された父母なく「化生之者」の文字、母親は白狐であったという伝説、益材の生没年不詳・・などを鑑みるに、晴明の生涯は生れ落ちた時から謎に満ちている。
父・益材は文武朝に右大臣にまで上りつめた安倍御主人から数えて9代目にあたり、極官は従三位大膳大夫。古来、安倍(阿倍、阿部)氏は天皇家の食膳を司る仕事に携わっていたといわれ、「あべ」の語源も「饗へ」からきているらしい。益材がこの職に任じられたのは適任だった為か偶然だった為か知る由もないが、かつては朝堂で政事を掌握する立場にいた御主人の後胤としてみれば、その身分は明らかに低い。晴明は幼い頃から神通力に長け、鬼を見る事もあったという。晴明が陰陽師・賀茂忠行の弟子となったのも、出世が望めない下級役人としての道を歩むよりは、との考えによったのだろうか。忠行は「道に付きて古にも恥じず、当時も肩を並ぶ者無し」といった人物である。因みにその弟子となって間もない頃、彼は師と共に百鬼夜行に出会っている。
晴明が史実に登場するのは、天徳4年(960)天文得業生の時で、節刀の形状を換申したのが初めである。時に40歳。それ以前の晴明については不明であるが、『続故事談』によれば大舎人として雑役に携わっていたらしい。晴明は賀茂忠行とその息子・保憲により陰陽道を学び、それを自分のものにしていった。遅い出世を補うように、彼はその後順調に昇進を重ねていく。天禄3年(972)天文博士。師であった保憲が亡くなったのは貞元2年(977)。保憲は息子・光栄に暦道を、晴明に天文道を伝え、以降賀茂家と安倍家は世襲をもってこれを後代に伝える事になる。『日本紀略』にはその翌年、陰陽師にしては甚だ不名誉な事に自邸に雷が落ち邸宅が破損した事が記されているがこれは「あの」晴明の邸宅に、という事で敢えて記されたとも考えられよう。
「土御門北、西洞院東」という場所に彼が居を構えたのが何時頃なのかは分かっていない。しかし寛和2年(986)6月、花山天皇が藤原兼家・道兼親子の陰謀の下に出家し譲位するという政変の折に、人目を避けて深夜に東山の法華寺へと向かう天皇の御車が彼の屋敷前を通った事を察した晴明は、天皇の譲位をこの邸宅で予見したと伝えられる。晴明の邸宅は内裏の鬼門である艮(東北)にあり、鬼門封じとなる方角に居を構えたのは、彼の陰陽師としての能力の高さを物語るともいえよう。また内裏にほど近い場所であったというところも注目したい。この花山朝において晴明は天皇の命により那智山の天狗を封じている。また式神と呼ばれる鬼神を操り、妻がその風貌を恐れて晴明に訴えると近くの戻橋の下にそれを移し使役したという。彼が天皇直属の蔵人陰陽師となったのはこの寛和2年の事。花山天皇譲位により、幼帝・一條天皇が即位する。藤原道長は、兄弟叔父甥の争いに勝利し、一條朝でその権力を大いに振るう事になるが、晴明は道長とも密接な関係にあり、両者の邸宅も近い場所にあったという。蔵人陰陽師とは、昇殿するに満たない官位の持ち主であっても、内裏への昇殿が許されあまつさえ天皇の側近くに仕える事が出来る陰陽師で、陰陽寮の中でも上位の者が任じられた。彼が元来の安倍宿禰姓から安倍朝臣姓を名乗るのもこれに前後しており、この頃の朝堂の権力者である藤原兼家、またその息子の道隆・道兼・道長らとの繋がりも大きかった事であろう。
長保3年(1001)に叙従四位下、以後大膳大夫、左京権大夫、播磨守を歴任。寛弘2年(1005)3月の記録を最後として同年9月に世を去るまでの活躍の記録はない。朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一條という六代の天皇に仕えた晴明は、『土御門家記録』によればこの寛弘2年9月26日に85歳にて没したとあり、いわゆる生年はこの85歳没説を逆算している。稀代の陰陽師だった晴明は、陰陽寮の長官である陰陽頭に任じられる事はついぞなかった。しかし子の吉平・吉昌も父の跡を継ぎ晴明に成しえなかった陰陽頭に任じられている。後に安倍氏はその居を構えた場所の名を取り室町時代に土御門を称すが、晴明はその家に陰陽道を開いた人物として土御門家の祖となる。
晴明は伝説にも彩られた人物である。『大鏡』『古今著聞集』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『御堂関白記』『古事談』『元享釈書』など数多くの古典に登場し、その異なる姿を現している。
*安倍晴明に思うこと*
晴明さんとの出会いはやはり古典でしょうか。「何だか変わったお話」くらいな感じで、それでいてその登場回数が増えていくに従って「何者なの?この人」に変わって。それ以降は友人・知人・先輩・後輩が薦めてくれた同人誌から入り、そこから史実の彼を探し始めたのでした。ももかが晴明さんと出会った頃はあの有名な『陰陽師』(@夢枕獏)も勿論出版されていましたが、今もってももかが読んだこのシリーズは1冊だけ(だと思う)。確か本棚にはある筈なのですが、それも自分で持っているのに後輩に同じ本を借りて読んだ1冊なんです(笑)。篁さまにしても晴明さんにしても、古典に描かれた「素」のイメージから膨らませた自分の中の像を壊したくないんでしょうね、きっと(^^;)。だからももかの手元にある晴明さん関連の本というと、小説や漫画は殆どなかったりして。
それでも史跡巡りの対象としてはももかの中では上位にいきます。但し、京都内という事に限定してなんですけれど。
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