このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

夢幻のかなたに
王国に住まう王侯貴族の皆さんはこんな方々です。

小野篁
(802〜852.12.22)
小野岑守の長男。母は未詳。東宮学士となり弾正少弼に任じられたが遣唐副使を命じられる。大使藤原常嗣と良船を争い、乗船を拒否。隠岐に流されるが後に許され参議にまでのぼりつめた。野宰相、野相公と呼ばれる。漢文学隆盛の時代にあって詩文、書に優れ、和歌は『古今和歌集』にも収集。極官は従三位参議。墓は京都市上京区。

弘仁6年(815)陸奥守となった父・岑守と共に任国に下向、同10年帰京。嵯峨天皇は岑守という文人を父に持ちながら少しも学問を顧みる事なく、馬ばかりに狂っている篁を「弓馬の士」となるかと嘆いたという。これを聞いた篁は憤慨して学問に志し、僅か3年後定員20人という難関を突破し21歳で文章生の試験に及第した。この嵯峨天皇の御代における彼に才学に関する逸話は『江談抄』『宇治拾遺物語』『きのふはけふの物語』『十訓抄』などに詳しく、『篁物語』の異母妹との恋愛もこの大学時代の事である。天長元年(824)巡察弾正となり官吏としての第一歩を歩み始め、その後昇進を進めていく。仁明天皇即位に伴い新東宮恒貞親王(後に廃太子)の東宮学士となり弾正少弼となった。

翌承和元年(834)任遣唐副使。初めの渡航は大風の為に失敗し一時中断。承和4年(837)の渡航も失敗し、大使藤原常嗣と共に大宰府に留まる事となる。しかし再度の出発を目前に、篁が病を理由に乗船を拒むという事件が起こった。また篁は「西道謡」を作って遣唐使を風刺。それが嵯峨上皇の逆鱗に触れ、死一等は許されたものの隠岐島に配流される事になってしまう。遣唐使は副使不在のまま渡唐。因みにこの承和5年をもって事実上の派遣は最後となり、次第に日本は国風文化が花開いていく事となる。

遣唐使が無事に大役を果たして帰京した事や、篁と親密であった嵯峨上皇の力もあったのだろう、1年余りで帰京が許された。承和14年(847)には従四位下参議(兼弾正大弼)に任じられた。後に野宰相、野相公と呼ばれる事になるのはこの参議という官職が唐名を「宰相」という事に由来する。嘉詳2年(849)頃から病を得、仁寿2年(852)一旦は平癒するものの再び再発。12月には家に就いて従三位を授けられたが22日に没。時に51歳。
篁は「身長六尺二寸」(約186センチ)という大男であった。そしてこの大男は何かしら人とは変わっていた。白楽天にも比する漢才は人々を驚かせた。彼が口を開けば、美しい詩歌が零れる。病と称して国命に背き、配流となる。当然その行動は理解し難い。法によって事を裁き人を裁く姿は薄気味悪い印象を周囲に与えた。様々な冥官説話はこうした篁に当然といわんばかりに結び付けられていく。人々はそんな彼を「野狂」と呼んだ。「狂」とは他と異なる人物という意味合いがあるのである。


*篁さまに思うこと*
篁さまとは晴明さんよりもずっと長いお付き合いです。現在ももかの「永遠なる人」できっとこれからもそうなのでしょう。友人知人の間でももかが彼の事を「篁さま」と連呼するのはもう10年来の事なので、今更敬称略は出来ません。このサイトで取り上げる時も「様」付をしない彼の呼び名はとても違和感があり、恐れ多くもあった程なのです。だってももかは彼のお姿を絵におこす事すら出来ませんもの。彼は美青年でなくても良いんです。体育会系の大男だってももかは構いませんが、その想像すら出来ません。史実の中の篁さま、歌人の篁さま、伝説の篁さま。どれもこれも皆んな素敵です・・・。六道珍皇寺の木像=彼のお姿という事で充分で御座います。
彼のお話で面白いのは嵯峨天皇とのやりとりですね。そして遣唐使あかんぺ事件。
乗船拒否して風刺歌作って、島流しにあって歌を作り、かの地では京に帰りたいと祈りに祈った、このお話がとても好きです。
彼の史跡は小野氏との兼ね合いや地蔵信仰もありいろいろと見る事が出来ますが、とりあえずは京都近辺を中心に散策出来ればと思っています。

もっと篁さまを知りたい人は篁冥府倶楽部(たかむらないとくらぶ)へどうぞ・・・ってまだ工事中ですけど。

篁冥府倶楽部(工事中)
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