このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
橘逸勢
(生年不詳〜842)
橘入居の子で、橘奈良麻呂の孫にあたる。遣唐使に従い入唐、帰国後は従五位下、ついで丹波権守となる。しかし承和の変に連座し、橘姓を除かれ「非人」と改めさせられ伊豆国に配流。途中、遠江国板筑駅で没したと伝えられる。文学にも秀でた他、書道、隷書に優れ嵯峨天皇・空海と並ぶ「三筆」の一人として知られ多くの逸話が残る。唐では橘秀才と呼ばれたという。墓は大阪府岬町下孝子。
逸勢の生年は不詳である。彼の祖父は奈良麻呂で、嵯峨天皇皇后の嘉智子は共に祖父を同じくする従妹でもある。
延暦23年(804)に最澄・空海らと共に入唐。若い頃から文学・書道に秀でた事が知られ、彼の地の文人からは「橘秀才」と呼ばれ賞賛されたという。帰京後は従五位下に任じられ承和7年(840)には丹波権守となる。彼が内裏の諸門の額を書いたのはこの帰国後の事であった。しかし承和7年(840)に淳和上皇が崩御し、承和9年(842)7月15日に嵯峨上皇が崩御。元々藤原氏の母を持たない皇太子恒貞親王(父は淳和天皇、母は嵯峨皇女正子内親王)は、嵯峨上皇の力によって皇太子位に納まっていたものの、嵯峨上皇という巨大な存在の喪失によりその立場を危うくさせていた。その2日後に、逸勢は春宮坊帯刀伴健岑と共に皇太子恒貞親王を奉じて謀叛を企てた廉により捕らわれた。逸勢は橘姓を剥奪され非人と改めさせられ、『橘逸勢伝』によれば伊豆国に配流の途中遠江国板筑駅で病死したという。この承和の変は藤原良房の陰謀といわれ、藤原氏の政治的基盤は確立された。恒貞親王は皇太子を廃され、代わって道康親王(父は仁明天皇、母は藤原良房の妹・順子。後の文徳天皇)が立太子した。
逸勢の娘は彼の檻送に従って東海道を下り、彼の死後は尼となり妙沖と名乗った。逸勢が復位したのは嘉祥3年(850)の事。正五位下を贈位され、本郷に帰葬も許され、また従四位下を追贈。貞観五年(863)の神泉苑での御霊会には御霊の内の一人でもあった記録が残っており、彼の怨霊を恐れていた事が窺い知れる。また終焉の地といわれる静岡県伊佐郡三ケ日町本坂には、妙沖尼が父の菩提を弔って建てた庵の跡に逸勢を祀った橘社が建てられている。
*橘逸勢に思うこと*
逸勢さん、つまりはタチバナさん。彼の史跡は京都の中にはぽつぽつとあったりします。まずは彼のお屋敷跡。民家の傍らに本当にひっそりと碑が建っているだけなんですけど、ここで生活していたんだわ♪としみじみ出来ます。この近くにはもう所在が不明となっていますけど、彼を祀るお社があったといいます。また下桂には彼を祀る御霊社もあります。御霊社に祀られ、また貞観年間の初御霊会には既に六所御霊の仲間入りをしているのですから、彼を恐れる人が多かったという事が分かりますよね。京都以外の御霊社でも彼を祀っているお社を見る事が出来ます。
彼の辞世と伝えられる句には「都をば 今は遥かに遠江 月の隈なき月見里郷」というものがあります。この句が詠まれたのは静岡県袋井市の辺りらしいです。因みに月見里と書いて「やまなし」と読みます。山が少ないので月見が良く出来る(だから月見里=山梨)・・・そんな意味合いの言葉なのだそうですが。遠く離れた京を思って詠まれた句です。そしてこの遠江国の本坂(かなり急な峠なのだそうです)を過ぎた辺りで彼は絶命したんですよね。承和の変では彼の従妹・檀林皇后橘嘉智子さんの姿が見え隠れしています。結局は藤原氏の台頭を許し橘氏の衰退を招く事になるこの事変を彼女はどうとらえていたのでしょう。彼女の娘正子内親王は自分の息子が廃された事、そしてそんな状態を許した母親や双子の兄・仁明天皇に憤慨しています。それでも橘氏は藤原氏とは親戚関係を保っていたようでもあります。ちょっと勉強不足なのですが、橘氏を祀る梅宮大社では橘氏長者に適当な人物がいなかった時に、藤原氏の氏長者がこれにあたったという記録が残されているのです。これは藤原と橘を繋いだ橘三千代にも関係するんですけどね。
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