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夢幻のかなたに
王国に住まう王侯貴族の皆さんはこんな方々です。


大伴家持
718頃〜785.8.29)

大伴旅人の長男。歌人として知られ、三十六歌仙の1人に数えられる。叔母に大伴坂上郎女、同母弟に書持、正妻は大伴坂上大媛(坂上郎女の娘)。「万葉集」編集者の有力候補でもある。名門大伴氏の長として一族を束ねる事に苦労したものの、政治的にも軍事的にも大きな功績を残すには至らなかった。昇進も遅かったが、桓武朝では春宮大夫に任じられ皇太弟・早良親王に仕えている。死後葬儀も行わないうちに藤原種継暗殺事件が勃発し、早良親王らと共に事件に関与していたとして除名処分を受け、子供達も流罪となった。後に復位。

家持の生年は諸説あり、分かっていない。天平10年(737)代の初め頃から内舎人として出仕したようで、これを踏まえてみると有力とされる養老2年(718)説を取りたい。この内舎人時代には右大臣橘諸兄の旧宅で宴があった時、久米女王・大伴池主らと共に顔を連ね歌を詠んだ記録が残る。父である大伴旅人は天平3年(731)に没しており、その後は大叔母である大伴坂上郎女に養育されていたと思われ歌の詠みぶりも彼女の影響を多々受けている。家持の最初の作品として記録が残るのは天平5年の「初月の歌」である。

聖武朝では、新興貴族である藤原氏の勢いに古くからの貴族である佐伯や多治比、そして大伴氏は斜陽の憂き目を見ていた。そしてその不満は聖武天皇の唯一の皇子である安積親王に注がれていた。藤原氏の血をひく阿倍内親王は、男皇子の安積親王を抑えて史上初の女性皇太子となっていたが、その周りには皇后・藤原光明子と藤原仲麻呂の姿があった
藤原四兄弟が病に倒れ朝堂から姿を消した時、皇后の異母兄で藤原氏とは縁戚関係を持っていた橘諸兄がその頂点に立っていたが、仲麻呂はこの皇后の力を支えに少しずつ頭角を現し始めていたのである。橘諸兄は元明朝に氏を賜った為、新興貴族の一つではあったが藤原氏という訳ではない。そして彼の政治を糾弾する敵は多かった。聖武朝の水面下では安積親王を支持する一派と阿倍内親王を支持する一派が両者の成長を見守りながら睨みをきかしているような状態でもあった。そんな中、家持は安積親王との交流を持っていた。政治的配慮というよりは気楽な歌詠みの仲間たち、気の合った若者達が親王を中に交流を持っていたと考えても良いかもしれない。藤原八束(後の真楯)や市原王らがその顔ぶれである。しかし藤原広嗣の乱が発端となり聖武天皇が平城京を出て流離いの旅に出た最中の天平16年(744)閏1月13日。安積親王は俄かに起った脚病の為に急死してしまう。家持の激しい落胆は残った挽歌からも伺い知る事が出来る。親王は17歳の若さで世を去った。一説に仲麻呂による謀殺といわれている。

家持は「万葉集」の中に多くの歌を残しているが、彼と親交を持った女性も多い。後に正室となる坂上大媛、笠女郎、山口女王、大神女郎、中臣女郎などエトセトラ、エトセトラである。余程の魅力があったのであろう。安積親王の死から2年後の天平18年(736)6月に越中守となり京を離れた家持が帰京したのは少納言となった天平勝宝3年(751)。5年という越中守時代が家持の作歌人生の中で最も輝いていたといっても良いであろう。「万葉集」に残る歌の半分がこの時代に作られたものなのである。越中からの帰京8年後の天平宝字3年(759)の正月に因幡国庁で詠んだ「新しき 年の始めの 初春の 今日降る 雪の いや重け吉事」の「万葉集」最後の作品は彼のものである。それ以降の作品は現存していない。

この越中からの帰京後、家持の昇進は極めて遅くなる。またその間の官職については地方と京を行き来するというものが多く、一時は左遷という形で地方へ赴いてもいる。恵美押勝と名を変えた藤原仲麻呂の政権を阻む企てに参加し、家持は罪を得なかったもののその責を藤原式家の宿奈麻呂(後の良継)が1人でとったもの、橘奈良麻呂の乱では家持は参加しなかったものの一族が関与していたものなど、皇位と権力を巡っての抗争に大伴氏の長としての家持は常に巻き込まれていた。昇進が遅かったのも恐らくその所為であろう。

仲麻呂が挙兵して敗れ、道鏡がその地位を制し、その道鏡も称徳天皇の崩御によって京を追われる。称徳天皇崩御と光仁天皇即位。約100年ぶりに天武天皇の系統から天智天皇の系統へ皇位が受け継がれ、それまで不運を囲っていた氏族の中にも光を見出したものが見受けられるようになる。宝亀元年(770)に至りようやく正五位下に叙せられた家持は、この宝亀年間に正四位下参議右大弁にまで昇る。光仁天皇が譲位し、桓武天皇が即位した天応元年(781)4月。家持は右京大夫と新しく皇太弟となった早良親王の春宮大夫を兼任する事になる。早良親王は桓武天皇の同母弟で、長く仏道に入っていたが父天皇の即位に伴って還俗、父天皇たっての頼みで立太子した親王である。家持は彼に故安積親王への果たせなかった想いを見たかもしれない。

しかし晩年にあたる桓武朝は、安穏なものでは決してなかった。延暦元年(782)閏正月、称徳天皇の甥にあたる氷上川継が謀叛を起こすという事件があった。光仁〜桓武と継がれ、皇太子も立って、万全と思われていた皇位継承に釘をさすような形の謀叛。家持は僅かながらの期間、これに関与していたとされ解任されてしまう。また古来より大伴氏は軍事に関する家系。大伴氏の長として家持は陸奥按察使鎮守将軍や持節征東将軍、鎮守府将軍を兼任する事になった。家持がこれらの官位を受けて赴任したか遙任したかは定かではない。その為、死没地については多賀城説と京説がある。

家持は極官は中納言従三位。祖父安麻呂・父旅人の大納言従二位には及ぶ事なくこの世を去った。そして死後20日余り。桓武天皇の寵臣である藤原種継射殺事件が勃発。家持はまだ埋葬もされていなかったが、関与していたとして官位を剥奪され、子の永主は家持の遺骨を抱えて流刑地隠岐に赴いたという。この時、首謀者の1人としてみなされた皇太弟早良親王はその位を廃され淡路への流罪の途中に食を断って絶命している。家持が復位したのは延暦25年(806)3月17日。桓武天皇はようやく彼の罪を許し、この世を去ったのだ。


*大伴家持に思うこと*

大伴家持。彼の名をももかは「やかもち」と呼びます。昔は「いえもち」と呼んでいましたが今はこちらです。ももかの中では「彼の煌いた時」っていうのは「安積親王と阿吽の仲となった頃」と「早良親王と仲良しになった頃」、そして「越中で池主と相聞する頃」でしょうね。
安積さんと家持はそれなりに歳も近くて(家持の方が少し年上)、いずれは天皇となって欲しいという期待をかけていたんだろうと思っています。でもまだ2人とも若いから、政治の事よりも目の前の遊ぶ事の方が大事って感じで。そんな彼が安積さんに贈った挽歌。「万葉集」の中で好きな歌のベストテンに入りますね。

早良さんと家持との出会いは家持晩年の頃。光仁朝・桓武朝に、希望も不満もあった家持は、初めて春宮大夫として早良さんにあって驚いた訳です。抹香臭いと思っていたら意外とウマが合うって事で。早良さんは小さな頃から仏道に入り、父天皇の即位に伴い(嫌々)還俗。親王禅師と呼ばれて還俗した後も東大寺などの官寺にとってなくてはならない人物でした。同母兄とはいえ桓武天皇とは余り接点のない生活を送っていた事が最終的には彼の悲劇となるんですけど、家持とは年代も趣味も越えた仲良しだったと思うのです。第一、桓武天皇は大伴氏のような旧貴族(名門)は、自身の血筋におけるコンプレックスからどうも嫌いだったような節があるんですよね。家持と早良さんが急接近すればする程、桓武天皇の心の中はピリピリしていたと思います。彼、本当に苦労人だわ(^^;)

越中で池主と相聞・・・していた頃の家持って薔薇色人生の真っ只中で、煩わしい事から逃れて趣味の世界に浸かっていたというイメージがあります。思いがけず大病を患って大変な思いをしたようですが。因みに池主とは大伴池主の事。大伴一族の1人で系列や生没年不詳ですが、家持より年上で上司と部下でもあった人物です。後に橘奈良麻呂の乱で投獄されその後は不明。奈良麻呂に関する不名誉な記述は橘嘉智子さんの立后後に抹消されたといわれていますが、恐らく杖下に倒れたのでしょう。池主って気が良くて機転が利くお兄さん肌のイメージがあるんですよね。だから家持の歌にこうも返す。その笑顔の裏では大伴一族の行く末を、長である家持以上に考えていた筈。彼を失って初めて家持は一族の結束に自分の力の足りなさを実感したのではないかな。

家持は「万葉集」の編集者といわれていますが、その変移についての「これが本当」というものはありません。どこでもドアがあったなら、本人に聞いてみたいところですよね(そしたらももかは人麻呂の宇治の歌の謎を聞くのよ〜)。一説に「万葉集」は種継射殺事件で家持が罪を得た時に大伴家から没収されたといいます。家持の復位後、当然返されるべきこの歌集はその後も国庫の中にあり、再び世に出されたのが次代の平城天皇の時。その後は漢学が大好きな嵯峨天皇(とその仲間たち)が一世を風靡し、そんな事も影響してか平安初期の宮廷では漢詩文が流行し和歌が衰退。紀貫之曰く「万葉集を知らなければこの違いは分かるまい、ふっ(@序文)」の「古今和歌集」が編まれた頃、仮名文字の発達と共に万葉仮名の使用が減り、「万葉集」自体に解読不明な歌が出始めていました。仮名で書かれた「万葉集」が出来たのは村上天皇の御世。この時、「万葉集」の歌を知っている事が宮中でのステイタスだったのです。



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