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斎王幻想
王様に連なる聖なる姫君・斎王の間

ここでは斎王(斎宮)に関する史蹟をご案内します。

平安京には伊勢神宮・賀茂神社の斎内親王(斎王)が伊勢斎宮・賀茂斎院に入る前の潔斎所が設けられました。それを野宮といいます。『延喜式』巻五・斎宮によれば、斎王は宮城内の初斎院に入るのですが、その間に宮城外の浄野に野宮が造られます。そして翌年8月上旬に初斎院から野宮に入り、翌年9月に伊勢群行までの期間をそこで過ごします。野宮は斎王が選ばれる毎に占定によって造られ、伊勢斎宮の場合は嵯峨野に、賀茂斎院の場合は紫野・有栖川にという通例はあったのですが場所は必ずしも一定したものではありませんでした。『斎宮記』による伊勢斎宮は崇神天皇皇女・豊鋤入姫命から後醍醐天皇皇女・祥子内親王までの75代。制度上の斎宮は天武天皇皇女・大伯内親王から始まります。一方、賀茂斎院は嵯峨天皇皇女・有智子内親王から始まり、後鳥羽天皇皇女・礼子内親王まででした。天皇家がこうした神に奉仕する「いつきのみや」を出したのに触発されてか藤原氏も氏神を祀る大原野神社などに一族の娘を「斎女」として差し出したのですが、長くは続かなかったといいます。


斎王の野宮


西院野宮神社(西四条斎宮) 京都市右京区
阪急電鉄西院駅・京福電鉄西院駅から徒歩15分くらい。四条中学校の側にあります。祭神は倭姫命と布施内親王。古くは野宮森と呼ばれていたそうです。某本に祭神は布施田親王とあったのですが、該当する親王がいなかったので、この皇女さまかと見当はつけていたのですがやはりそうでした。布施内親王は伊勢斎王の1人ですが、彼女が祭られる理由の一つには恐らく桓武天皇の皇女で平安京初代の斎王という事があるのかもしれません。「西四条の斎宮のもとに花をつけて遣しける」という権中納言敦忠と第37代伊勢斎宮の醍醐天皇皇女・雅子内親王の歌が『玉葉集』巻12恋の歌の中にあるのですが、ここがその舞台ではないかとも考えられています。

斎宮神社 京都市右京区
京福電鉄有栖川駅を下車し、県道112号線に出たら西方向へ歩きます。祭神は天照皇大神。創建年代は不明で、昔は「神明」「八幡」「斎宮」とも呼ばれていました。寛文年間に修復。厄除け開運の神、婦人の血の道の神として崇拝されています。5月の初卯の日、大堰川に舟を浮かべ恵方祭を行っています。樹齢数百年という神木があります。

斎明神社(神明神社) 京都市右京区
こちらも京福電鉄鹿王院駅下車。斎宮神社からそんなに遠くはありません。バス路線をそのまま嵐山方面に西へ歩いているとついてしまうという感じです。祭神は天照皇大神。『三代実録』貞観3年8月24日の条によれば、文徳天皇皇女恬子内親王が付近の葛野河で天照皇大神を祀って禊をしたとの事ですが、ここはその地とされています。

野々宮神社(野野宮神社) 京都市右京区
京福電鉄嵐山駅・JR嵯峨駅から徒歩15分強。野宮神社といえば誰でもここを思い浮かべる筈。『源氏物語』に光源氏が嵯峨の野宮にこもる六条御息所に会いに行くくだりがあります。ここに出てくる「黒木の鳥居」があって当時を偲ばせていますが、今のものは何となく人工的というか・・・。このお社がどの斎宮の野宮であったのかは分かっていないそうです。祭神は天照皇大神。



斎王の住居


斎宮邸宅遺構 京都市中京区
西京商業高校の 校舎建て替え工事に伴った発掘調査で、平安京の右京三条二坊十六町に当たり、一町(百二十メートル)四方の大規模な邸宅跡が、平成13年(2001)3月発見されました。ここには建物の一部と池の遺構が完全な形で見つかり、また平安中期の墨書土器が数多く出土しているので邸宅はこの時期のものと思われるとの事。土器には「斎宮」などの文字も見えるので斎宮が住んでいたのではと考えられるそうです。角田文衛氏は当時邸宅に住んでいたのは三条斎宮恬子内親王が妥当で、その後は妹の掲子内親王が30年程住んでいたのではないかとの見解を表しています。

賀茂斎院跡(賀茂斎院跡顕彰碑) 京都市上京区
櫟谷七野神社の辺りが賀茂斎王が賀茂神社に奉仕する為に身を清め過ごしたという斎院(御所)で、紫野という地名から紫野斎院と呼ばれた場所だといわれています。初代賀茂斎院は嵯峨天皇皇女有智子内親王。賀茂の祭(葵祭)では斎王はここから両賀茂社へと向かいました。記録に残る最後の斎王は第35代の後鳥羽天皇皇女礼子内親王で、財政と戦乱の中で廃絶に至った斎院はその後廬山寺に施入され、応仁・文明の乱後に荒廃はなはだしくいつしかその存在も定かではなくなっていったといいます。境内には平成13年に建てられた立派な碑があります。



日を祀るお社


神明神社 京都市中京区
綾小路通にある小さなお社。祭神は天照皇大神と豊受大神です。源頼政はここに祈って鵺を退治したのだとか。創建ははっきりしていませんが延暦年間ともいわれ、後に天台宗の円光院という寺となり明治に至って神仏分離し現在の形となりました。

神明神社(栗隈神明・宇治神明・今神明) 宇治市神明宮西
JR新田駅から徒歩20分くらい。社殿によれば平安京遷都後ほどなく勧請されたそうです。祭神は天照皇大神と豊受大神。15世紀の初め頃には京都における伊勢信仰のメッカとして大いに賑わい、将軍御台所日野富子の参詣も史書に記されています。能狂言の「栗隈神明」「今神明」の所縁のお社です。

高松神明社  京都市中京区
左大臣源高明の屋敷・高松殿の造営と共に伊勢より天照皇大神を勧進して創建されたと推測されますが具体的な年代は分かっていません。源高明が安和の変で失脚後、高松殿は小一条院敦明親王の御所ともなり、2度の焼失を経て平安時代末期には白河天皇の内裏(高松内裏)となり、保元の乱の舞台となりました。平治の乱の際にこの御所は焼失しましたが、鎮守社であるお社はこの地に残りました。しかし応仁の乱では本殿を始めとして多くの貴重な書文までもが焼失、以降京都の大火にも焼失と再建を繰り返し幕末には蛤御門の変の際にも類焼しています。

日向大神宮(日向神社) 京都市山科区
顕宗天皇の時代(485〜488年間)に筑紫日向の高千穂ノ峰の神跡を移して創られたといわれ、天智天皇は圭田を寄進し鎮座の山を日山と名付けました。伊勢神宮と同じく神明造りで内宮(上ノ本宮)・外宮(下ノ本宮)があり、内宮には天照皇大神が祀られています。「京のお伊勢さん」として親しまれ、東海道の出入り口にもあたる事から旅人の道中安全祈願や伊勢神宮の代参、伊勢参り前に参拝する人々で賑わったとか。新田義貞も建武の戦乱中、ここで戦勝を祈願しています。裏山には戸隠神社をお祀りしている天岩戸があって、潜り抜けると開運・厄除けにもご利益があるそうです。紅葉の隠れた名所です。

朝日神明宮 京都市下京区
貞観年間に造営され、現在の地には元亀3年に移されたといいます。祭神は天照皇大神。かつては広大な神域を領し「幸神の森」と称されました。江戸時代の2回の火災により末社の八社のうちの大半が焼失。現在は猿田彦社(幸神社)のみが現存。

宇賀神社 京都市南区
祭神は宇賀之御魂神と天照皇太神。藤原鎌足がこの地を遊猟している時に金印を見つけ、後に此処に京が遷されれ子孫が繁栄する事を予知してそれを埋めたと伝えられています。その跡が宇賀塚といってこのお社の始まりなのだとか。



-斎王の記録-
  御大神の御杖代・伊勢斎王

賀茂大神の阿礼乎止女・賀茂斎王

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