このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

王都・平安京
桓武天皇がつくりし魔界都市のあらまし

時は延暦3年(784)。
桓武天皇はかねてからの念願であった平城京から長岡の地への遷都を実行した。しかしその翌年。ちょうど天皇が娘である斎王・朝原内親王の伊勢群行を見送る為に旧都・平城京を訪れていた折、天皇不在の長岡京で新都造営の最高責任者であり天皇の寵臣・藤原種継が何者かに射殺されてしまうという事件が起こる。

天皇はすぐさま長岡京に帰り事件の関係者を処罰。この時、首謀者として罪を問われた人々の中には天皇の弟で皇太弟・早良親王も含まれていた。早良親王は位を廃され淡路へ流罪となるが、無実を叫びながら食を絶ち流刑地に赴く途中で絶命してしまう。
それからどうした事なのか。桓武天皇の周囲には次々と異変が起こるのである。
天皇の生母や后妃が亡くなったり、早良親王の代わりに皇太子となった安殿親王が病気がちだったり・・・。

桓武天皇はついに遷都を表明。時に延暦13年(794)。事件から9年後の事だった。「平安京」と名づけられたその都は「永代の京となれかし」との寿ぎを受け、現代に至っているのである。



四神相応のしかけ

桓武天皇が平安京を現在の京都の地に造らせたのは8世紀末期。平城宮で即位した彼は、平城京を棄てて新しい自分の都を築きたかったのだろう。それは壬申の乱によってはっきりを分かれた皇統を、再び天智天皇の末裔へと戻し、天武天皇系が造った平城京を否定するものでもあったといえる。彼が自分の都を長岡に定めたのは延暦3年のこと。だが、長岡遷都からそう遅くはない時期に既に山城への遷都を考えていたらしい。そして様々な理由から僅か10年の後の延暦13年10月22日に彼は平安遷都を宣言した。因みにこの日を記念して行われるのが現在の時代祭で、遷都1100年を記念して明治28年から開催されている。古い時代から現代へという形での巡行は、大正時代になって明治維新から古い時代への巡行と変わり、現在に至るのである。

平城京にしてもその前の藤原京にしても、その京づくりは中国のそれを模して作られている。四神相応というしかけ。そしてそれを受け継いだこの平安京も同様であり、桓武天皇が選んだ地形はその利に叶うものであった。四神とは京の四方から降りかかる災厄を鎮め守護する四聖獣を表す。古代中国で信じられたこの聖獣は既に戦国時代にその存在が知られているが、漢代になるとそれが特に取り上げられるようになった。つまり東に青龍、西に白虎、南に朱鳥(朱雀)、北に玄武を指し示し、これを備えた京は即ち吉相の地なのである。

長岡京において桓武天皇はその第二の遷都に際し、大納言藤原小黒麻呂に龍穴を探すように命じ、小黒麻呂は葛野郡宇多村をそこと探しあてる。『平家物語』に曰く「此の地を見るに、左に青竜、右に白虎、前に朱雀、後に玄武、四神相応の地なり。これ帝都を定むる
に足れり」

四神相応
Siginsouou


東[青龍−Seiryu/Qinglong−]春・左
清い川の流れのあること。
天からの恵みの雨をもたらし、豊作へと導き家運を隆盛させるという。図様は龍。
青は五行説で東をさす色。
東には鴨川があり、それを通じて気(龍脈)が水の如く京へと流れ込む。


西[白虎−Byatko/Baihu−]秋・右
人が行き交う大きな道、すなわち街道があること。
女性に子宝と安産を授け夫婦円満に導くという。
その姿は白い虎で、慈悲深く君主に徳がある時に現れる霊獣でもある。
白は五行説で西をさす色。
西から東へ。そこには山陰道・山陽道といった長道が開け、人々が往来。


南[朱雀−Suzaku/Zhuque−]夏・前
南に池や川或いは海など窪んだ湿地、または平地があること。
朱雀はその身に炎を持ち、その大いなる翼で災厄を祓い福を招くという。図様は鳳凰。
朱は赤、五行説では南をさす色。
現在は埋め立てられているが、平安の当時の南の地には巨椋池という沼地が開けていた。
池の気は北上して京へと流れ込む。


北[玄武−Genbu/Zuan−wu−]冬・後
北に丘陵の地があること。
その姿は長寿と富を招くとされる亀、災厄を寄せつけないとされる蛇の合体獣で表され、長寿と繁栄をもたらすという。
玄(くろうと)、つまり黒は五行説では北をさす色。
平安京の北にそびえている山々の気は、大内裏の真北にあたる船岡山を通り京に入り込む。
それを受け止めるように羅城門・東寺・西寺が建てられた。



桓武天皇はこうした四神相応に沿った平安京をつくったが、それ以外でもこの京にはしかけが張り巡らされている。鬼門封じである。艮、つまりは京の北東の鬼門である比叡山に最澄をもって延暦寺を建てさしめる。「一切経(大蔵経)」を東西南北の四方の岩倉に埋め、京の外から内側の大地の安定をはかる。平安京との境に建つ羅城門、それを挟んだ両脇に、国家鎮護の寺である東寺と西寺を建立。京の四方に方位神である大将軍神社を置く。平安京が呪術都市といわれるのはこうしたいわれもある。

更に御霊信仰により、生前に恨みを残し生を終えた御霊の猛威を跳ね返す意味での建物が建てられるようになる。平安時代初期の御霊を祀る御霊社、平安時代最大の怨霊といわれた菅原道真の霊を慰める為の北野天満宮、後代までその威力が恐れられた崇徳天皇の白峯宮など。また、この時代が生んだ陰陽師安倍晴明の力をもって平安京を護らしめんとする人々は、彼の死後早々にして彼を祀る晴明社をも建てる。桓武天皇が示した都市の形は、平安京に住む人々をして二重、三重のしかけを生み出していったのである。


HOME 王城









































このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください