このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

TASOGARENOYAKATA

王妃マリー・アントワネット

マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ロレーヌ・オートリッシュ
(1755.11.2〜1793.10.16)

オーストリア・ハプスブルク家の皇女で、神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの16番目の末娘として生まれる。ドイツ語名はマリア・アントニア。1770年5月、14歳の時にフランス・ブルボン王家の皇太子ルイ・オーギュストに嫁ぎ、1774年6月14日に王太子がルイ16世として即位するのに伴い王妃となった。ここに19歳の国王と18歳の王妃という若い国王夫妻が誕生する。しかし結婚後数年が過ぎても子供が生まれず、その反動からかアントワネットは次第にドレスや宝石に国費を濫費したり政治に介入したりと自分勝手な生活に浸っていく。またその事は王侯貴族、果ては民衆の間にまで反王妃感情を生んでいった。第一子マリー・テレーズ王女(マダム・ロワイヤル)が誕生したのは1778年12月。その3年後に王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワが生まれ、次いでルイ・シャルル(ノルマンディー公)、ソフィー・エレーヌ・ベアトリス王女(生後11ヶ月で夭折)が生まれた。母親となったアントワネットは落ち着きはしたものの、それまでの生活を改めるという事はなかった。そんな中起こった名高い「首飾り事件」からフランスの王制に対する批判はそのまま革命へと流れていったといっても過言ではないが、フランス革命の直接の原因は財政破綻からなるものであった。

1789年5月。175年ぶりに開催された第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)・第三身分(平民)からなる「三部会」がヴェルサイユに招集。この中、かねてから病床についていた王太子ルイ・ジョゼフが7歳で亡くなった。やがて「三部会」は第三身分を中心に一人歩きをする。翌6月には第三身分による「国民議会」が結成され、第一身分と第二身分がこれに賛同。この時点ではまだこれが革命の呼び水になろうとは誰も予想だにしていなかった。7月14日独裁政治の象徴であったバスティーユ監獄が陥落。国民議会により王制の権威は著しく低下し、8月26日には「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」が採択されフランスの絶対王政は終わりを告げた。そして10月には国王一家はパリへ帰還する事になる。

1791年6月20日、有名な「ヴァレンヌ逃亡事件」が発覚。国王一家はアントワネットの母国であるオーストリアを目指して逃亡したが、国境近くのヴァレンヌで捕らえられパリに連れ戻される。この時の恐怖はアントワネットの髪を老婆のような白髪に変えてしまった。ヴァレンヌ逃亡事件は国民と国王との間に大きな亀裂を生み、辛うじて保っていた王制を共和制へと移行させてしまう。1792年8月10日朝、国王一家が居城としていたチュイユリー宮殿が民衆に襲撃された。国王は立法議会に保護を求め数日そこで寝泊りするが、二度と宮殿に戻る事は出来ないままタンプル城塞に移され事実上監禁される事になる。ここでは国王、王妃、エリザベート王女(国王の妹)、マリー・テレーズ王女、王太子ルイ・シャルルの5人が生活を共にした。国王の弟達や叔母達はすでに国外に亡命、親しい侍女達からも引き離された生活であり拘束される事も多かったが家庭的な日々を送っていた。4ヶ月の拘留の後、国王の起訴が決められ裁判が開かれた。結審により翌1793年1月21日国王は革命広場で処刑。7月ルイ・シャルル(王党派からはルイ16世の死後、国王ルイ17世として指示されていた)は王位継承者である事を忘れさせる為に母親から引き離された。この時アントワネットはいつにない取り乱し方をしたという。ルイ・シャルルはパリ革命市議会議員である靴屋シモン夫妻に預けられる事になるが、1795年6月8日にタンプル獄でひっそりと息を引き取ったといわれている。逃亡・生存の噂もあるが最近の研究ではタンプルで獄死したらしいとの見解が明らかにされた。翌8月2日アントワネットは一人コンシェルジュリー獄に移された。裁判が行われたのはそれから約2ヶ月後である。処刑の前夜、アントワネットは義妹エリザベート王女に遺書をしたためている。その翌日刑場に引かれる彼女の姿は画家のジャック・ルイ・ダヴィットのスケッチから伺う事が出来る。遺体は国王と同じマドレーヌ墓地に埋葬された。

国王夫妻の死後、ナポレオン帝政時代を経て再びブルボン王朝が復興する。ルイ16世の弟のプロヴァンス伯爵がルイ18世としてアルトワ伯爵がシャルル10世として即位するのである。この時代になると人々は処刑された国王一家を懐かし
んだ。1815年1月21日ーまさにルイ16世の処刑から22年後のこの日、ルイ16世とアントワネットの亡骸は王家の霊廟のあるサン・ドニ寺院に移され彼等はようやく安住の地を手に入れたのだった。


■ベルサイユのばら■
フェルゼン、オスカル、そしてアントワネットの三人が主人公の『ベルばら』において、彼女はロココの女王として君臨します。赤薔薇(紅薔薇)のイメージ設定だったかと思います。「ロココ」は「ロカイユ」つまり「小石、砂利」を意味する言葉で優美軽快な装飾様式の事です。バロック調に似ていますがどちらかというと繊細な部類ですね。でも実際のロココ様式期はルイ15世の御世であって、アントワネットが王妃となり栄華を謳歌していた頃はネオクラシズム様式が花開きました。古代ローマ様式への懐古とそれに伴うシンメトリーチックな家具に囲まれ、ロココ様式の甘さから一味進んだシンプルさを兼ね備えたものです。服装も次第に自然回帰の方向に移行していきました。
さて『ベルばら』作中でのファッションリーダーであったアントワネットの服装といえば、胸元の開いた豪華なドレス、ダチョウの羽、高く結い上げた髪には白い粉をふりかけています。余り高く結いすぎたので馬車に乗るのも一苦労だったという御婦人のお話もありました。こんな華やかな服装にあの「首飾り事件」のネックレスが加わったらもう言葉も出ないでしょうね。因みにネックレスなどの装飾は、彼女達の皺を隠す為に発展したという説もあるのですよ。それでいてプチ・トリアノンでは質素でゆったりとしたドレスを着ている事が多かったのですが、それが王妃としての品位を崩すともいわれていたのだとか。ある程度の豪華さはやはり王族には必要だったという事なのでしょう。

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