このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

TASOGARENOYAKATA

デュ・バリ夫人

マリー・ジャンヌ・ベキュ・ゴマール・ド・ヴォベルニ
(1743.8.19〜1793.12.8)

ムーズ県ヴォワール村に定食屋の賄い婦(お針子女ともいわれる)の私生児として生まれた。修道院で過ごした後、15歳の時に自らマノン・ランソンと名乗り始める。身持ちが悪く娼婦まがいの生活を送り、1760年にはお針子としてラビーユの仕事場に入った。そこでグルタンと出会いその仲介を受けながら派遣娼婦として働き始める。彼女がヴォベルニエという名で賭博場で過ごし始めた頃、此処に現れたジャン・デュ・バリー子爵と知り合う。ジャンヌは此処から連れ出され彼の愛人となって「ランジュ(天使)」と呼ばれるようになる。しかし彼の目的はジャンヌをルイ15世の愛妾とし、自らも権力を得ようとした事である。たまたまジャンはポンパドゥール夫人亡き後のルイ15世の愛妾探しをしていた事もあり、遂にジャンヌは国王の目に止まる事になる。しかし元娼婦の女性を公式寵妃(愛妾)に立てる事は反対者も多く、また彼女の身分も低かった事から難しかった。またジャンは妻帯し子供もいた為にジャンヌとは結婚出来なかった。そこでトゥールーズにいたジャンの弟で少し抜けたところのある独身のギョーム・デュ・バリに白羽の矢がたった。1768年8月23日ジャンヌはその生まれを偽りジャン・ジャック・コマール・ド・ヴォベルニエの娘としてデュ・バリ伯爵夫人の称号を得、ギョームは多額の金を得てトゥールーズに帰った。この夫婦は二度と会う事はなかったと考えられている。

身分も揃い、国王の強い意志もあって翌年4月22日ジャンヌは正式に寵妃となりヴェルサイユに君臨する。始めは礼儀作法も宮中のそれとは比べ物にならない程酷かったが、それを克服し、かつて彼女を軽蔑していた人々も徐々に彼女に近づいていく事になる。この新しい寵妃は美貌の持ち主とはいえ浪費は勿論、政治にも介入し民衆の反感をかっていた。1770年には宰相ショワルーズを失脚させてもいる。実のところショワズールは妹・グラモン夫人を寵妃として受け入れられなかった事からジャンヌに対して対抗意識を燃やしていたのだった。同年、王太子ルイ・オーギュストの元にオーストリアとの同盟の為にハプスブルク家のマリー・アントワネットが輿入れした。彼女はジャンヌの育ちを憎み、言葉をかけようとはしなかった。この事はあわや国際問題にまで発展しそうになったが、1772年1月1日アントワネットから公の場でその一言を勝ち取る。元娼婦に王位継承者の妃が屈服した瞬間だった。ちょうどこの頃、ルイ15世はジャンヌの為に宝石商ベーメルに600個のダイヤモンドを散りばめた首飾りを作らせていた。これは後のフランス革命の序章ともいえる「首飾り事件」に登場する事になる。しかしそれが出来上がってくるか否かの1774年4月27日の夜、狩りからトリアノン宮殿に戻ったルイ15世は突然体の不調を訴えた。ルイ15世は天然痘と診断され、1ヶ月余りの闘病の後この世を去ってしまう。彼が病苦と闘っている時、ジャンヌはたった一人で看病にあけくれていたが、聖職者大司教に臨終の秘蹟を受ける際に、とうとう遠ざけられてしまう。5年余りの愛妾生活だった。彼女はデギヨン公爵夫人の馬車に乗せられヴェルサイユからリュエル館へと向かった。そして5月10日ルイ15世が崩御し、同日王太子ルイ・オーギュストが国王ルイ16世となった。5月9日付でデュ・バリ伯爵はヴァンセンヌ城館へ、ジャンヌはポン・トー・ダム尼僧院に追放の命が下されているが、これはルイ15世がジャンヌの後々の事を思って予め用意していたともいわれる。

翌年5月ド・リーニュ公の尽力によって尼僧院を出、ルイ16世の許可を得てモンタルジに近いサン・ヴランに館を得る。その後愛人デギヨン伯爵の一計によりモープー外相や宰相ド・モルパ伯爵らの力を得て、1776年10月にはパリの郊外の
リュシエンヌ(ルーヴシエンヌ)城館に住み沢山の愛人に囲まれるなど以前のような華やかな暮らしを始めるまでになった。ルイ15世が彼女の為に建築家ルドゥによって建てさせたこの城館にはド・リーニュ公を始めとしマリー・アントワネットの実兄であるオーストリア皇帝ヨーゼフ2世も訪れている。

しかし1789年に勃発した大革命後、領地や館を失い、愛人のパリ軍部司令官ド・ブリサック公もヴェルサイユで惨殺。ジャンヌは1791年1月にイギリスに亡命。イギリスでは亡命貴族の為に援助を行っている。その後2回フランスとイギリスを渡り、1793年
3月、自分の居城が差し押さえられ隠しておいた宝石や貴金属類が気になり、帰国。そして9月22日、以前彼女に仕えていた下人に密告され逮捕された。ジャンヌはサント・ペラジ監獄に送られ12月6日に革命裁判所から全財産没収と死刑の判決を受ける。12月8日グレーブ広場に連れて行かれた彼女は死に臨んで5時間の執行猶予を待ったり、旧知であった死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンに懇願してみたが、遂に断頭台の露と消えた。それは彼女が一時でも屈服させた事のある王妃マリー・アントワネットの処刑から約2ヵ月後の事だった。フランス最後の公式寵妃。


■ベルサイユのばら■
この本では美人で気が強く、マリー・アントワネットの王太子妃時代のライバルですね。彼女を「赤毛のちび」と言い放っていたりします。実際は民衆にはかなり不人気ではありましたが、ルイ15世にとってみれば素直で明るい女性だったようです。彼女の大好きなものはカリフラワーだったそうですよ。
『ベルばら』ではデュ・バリー夫人、ですがこちらではデュ・バリ夫人。何となくももかはこちらの方がしっくりいっていたりします。因みにこの名前、元は「デュバリー」だったようですね。彼女の結婚式の時にジャンが授爵を示す「デュ・バリー」にしてしまったとか(笑)。授爵への憧れというのはフランス革命下にも実はあったらしくロベスピエールも本来は「ド・ロベスピエール」ではなかったともいいますし、ダントンは「ダ・ントン」と名乗っていたのだそうです。
あんなにもマリー・アントワネットと熾烈なバトルを繰り広げられていたデュ・バリ夫人。その最期は断頭台に望んだ人々の中で最も生への執着が激しかったともいわれ、愚かしくも悲しいものでした。かえってこうした夫人の最期に触れないまま、物語を止めた「ベルばら」は流石だなと思うのです。

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