このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

TASOGARENOYAKATA

サン・ジュスト

ルイ・アントワーヌ・レオン・フロレル・ド・サン・ジュスト・リュシブール
(1767.8.25〜1794.7.28)

中部フランスのニヴェル州ドシーズに軽騎兵隊大尉のルイ・ジャンとドシーズ公証人レオナール・ロビノの娘マリー・アンヌとの長男として生まれる。彼には1768年生まれのルイーズ・マリー・アンヌ、1769年生まれのマリー・フランソワーズ・ヴィクトワールの二人の妹がいた。幼い時に伯父のヴェルヌイユの司祭アントワーヌの元で過ごし、伯父の死去に伴い両親の元に帰った。1777年にエール県のブレランクールに移るが、以後ここが彼の故郷となる。同年レオンが僅か10歳の時に父ルイ・ジャンが亡くなった。後にソワソンに近いサン・ニコラ・オラトリオ修学会学院にて修学。帰省中の1785年の12月に公証人の娘テレーズ・ジュレと想い合う仲となるがテレーズの父親によって別れさせられ、翌年彼女は父親が薦める男性と結婚してしまう。数年後に著された『オルガン』はかなり風刺された内容となっているが、その女性のモデルがテレーズとされている。かつての恋人をここまでに描くという事はレオンの痛手はかなりのものだったようだ。その後家出さながらにパリに出るものの母親による警察代理官の手によって連れ戻され、一説にピクピュス感化院に放り込まれたという。そこでは半年の更生期間を送る。

1787年法律を学び、ソワソン代訴人デュボワ・シャルムの第二書生となった。翌年ランスの大学法学部に入学し、法学士号を取得。1789年5月、第一身分(僧侶)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)による三部会が国家財政の危機を回避する為にヴェルサイユに召集。この間に発表した長編詩『オルガン』はその内容からまもなく発禁処分となり、レオンは逮捕から逃れる為に身を隠す事になる。しかしフランス革命の口火を切ったともいえる7月14日のバスティーユ攻撃が程なくして起こり、その混乱に乗じて状況が一変。故郷へ戻った。因みに三部会は6月20日の有名な「テニスコートの誓い」を経て身分にとらわれない国民議会へと変貌していく。一年後の7月14日にはブレランクールの国民衛兵代表としてパリの連盟祭に参加。この頃には既にロベスピエールと意思を交わしていたようである。著作の『革命及びフランス憲法の精神』には若き革命支持者としての頭角を垣間見る事が出来る。

レオンが歴史の表舞台へと踏み出したのは1792年9月5日。彼は最年少の国民公会議員として当選、パリへと向かった。以後ジャコバン・クラブ(正式名称は「憲法友の会」)の中でも元々傾倒していたロベスピエールの率いる山岳派に属す。10月22日にはジャコバン・クラブの中での初演説を果たし、翌11月13日には国王ルイ16世の処刑の是非を問う論争において国民公会での初演説をする。この時の王権の否定、即ち「王として統治するか、それとも死か」という演説を受けたロベスピエールが「祖国が栄える為に王は死ななければならない」と演説。投票の結果、国王の存在そのものが有罪と決定し、ルイ16世は翌年1月21日に処刑となる。ジャコバン・クラブは一時1000人もの会員を誇っていたが、後に様々に分裂。その中でもこの時期にはロベスピエールを中心にルソーの思想を掲げる山岳派と、ブリッソーなどを中心としディドロらの百科全書派の思想を掲げるジロンド派が主だった。この内部分裂は対立となって政治の主導権を握ろうとするものの、あらゆる政策の失敗がジロンド派を滅亡へと導いていった。山岳派によりジロンド派が追放されるといわゆる恐怖政治(テルール)といわれる政治が始まった。この頃これらの急進撃的な政策に飽いていたダントンがロベスピエールと袂を分かち公安委員会を退くと、代わって補助委員だったレオンが正式に公安委員となった。恐怖政治は様々な人々を断頭台へと送った。山岳派と対立状態であったダントンらの「寛容派」、エベールらの「過激派」も例外ではなかった。

革命は革命支持のフランスとそれを阻止しようとする諸外国とを戦争状態に陥らせていた。1794年6月16日、レオンはフルーリュスの戦いに参加し圧勝した。しかしその喜びの裏で彼の不在のパリでは公安委員会が分裂状態に陥っていた。また恐怖政治に参加している人達の中にもその矛先がいつ自分に向けられるかで毎日怯えている。ブルジョワの支持基盤も心もとない。様々な思惑の中でロベスピエール等の失脚への道は作られていたといって良い。つまりは彼等は孤立していたのだ。半月後レオンはパリに帰還。同じく公安委員であり戦争を勝利に導いた一人であるカルノーはその発言力を得、次第にレオンとは対立状態となっていた。同時期、ロベスピエールは公の席へ姿を見せる事がなかった。理由は定かではない。

7月22日には保安委員会と公安委員会が妥協の為の合同会議が開かれたが、レオンの忠告もロベスピエールは聞き入れなかったという。いつしか二人の間には大きな考えの相違が生まれていたのである。同26日に至ってようやくロベスピエールが動き出す。しかしそれはレオンへの相談もなく行われた。その日の誰に向けたでもない演説は恐怖政治に怯える人々をますます震え上がらせた。翌27日、国民公会の場で状況を覆そうとしたロベスピエールは発言を阻まれ、次いでレオンの演説も「無気力なほのめかし」と決めつけたタリアンによって阻止された。以後、彼は口を閉ざし、ロベスピエールも誰の指示も受けられないまま状況は「逮捕」へと発展していく。夕方、蜂起した人々によって一時レオン達は市役所へと逃れた。市長を始めとするコミューンの蜂起による勝算もなくもなかったが、独裁者と呼ばれたくはなかったロベスピエールはこれを拒否する。しかしその間に彼等を叩こうとする国民公会は衛兵を市役所に向けこれを攻撃。部隊は市役所に突入し、これに対してロベスピエールはピストル自殺を図ろうとし失敗、顎を負傷。婚約者アンリエットの兄であるル・パは自殺、レオンは抵抗する事なく逮捕された。この日は革命暦の熱月(テルミドール)9日。「テルミドールの反動」といわれる政変である。翌朝コンシェルジュリ牢獄に移された彼等は有罪の宣告を受け、夕方には22名が革命広場に送られた。様々な怒号が飛びかう中レオンは変わらず冷静であった。それは傲慢とも取れる様子だったという。彼の最後の言葉は、同志にして考えを分かつまでに至るも、まだ彼の中では大切な存在だったといえるロベスピエールに向けたものである。ただ一言のその言葉にロベスピエールは頷き、彼の最期を見守った。処刑は夜8時過ぎまで続けられ遺骸はすぐさま共同墓地に運ばれた。現在レオンがどこに眠っているかは知る事が出来ない。後にその容貌の美しさと冷酷な一面から歴史学者ミシュレからは「死の大天使」と称されている。



■ベルサイユのばら■
『ベルばら』に登場するレオンといえば「花のサン・ジュストくん なぜかおたずね者」は有名ですよね〜。オスカルと並ぶ美形をという事で木原敏江先生が後押しなさったそうです。その為かこの台詞があるコマの下には「ドジエサマ提供」の文字が.(^^)。この時の彼は『オルガン』が発禁処分となり遠縁のベルナールの元に身を隠していたという設定になっています。彼が「芸術作品」と称していた『オルガン』は、テレーズ・ジュレとの失恋から彼女をこき下ろすように書かれたのできわどい描写もある本なのですが、オスカルってばルソー以外にこんな本まで読んでいたんですね〜(笑)。ジャンヌの回想録も齧っていたようですし・・・オスカルは結構流行物には弱いみたい(笑)。
彼の髪の色は『ベルばら』では黒髪、『マリーベル』では金髪などとなっていますが、本来はどちらだったのでしょう。実はどちらともいえる説が残っていて確証はないみたいです。肖像画などを見ると何となく金髪っぽい感じもするのですけれどね。
政界へのデビューから失脚までの約2年という時間は、彼の名を歴史に留めはしましたが余りにも短いです。新撰組も入京から数年で境遇が変わっていますから、何となく同じように思えてなりません。最後にはレオンとロベスピエールは意見を異にしてしまっていますが、この世で最後の言葉をかけたのがロベスピエールだったというのがとても印象的でした。

HOME 薔薇の回廊












































このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください