このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

TASOGARENOYAKATA

ラ・モット夫人

ジャンヌ・ヴァロア・ド・ラ・モット
(1756〜1791)

ジャック・ド・サン・レミー男爵の娘として生まれる。ジャックは国王アンリ2世とサン・レミー家の女性に出来た子供から数えて4代目にあたり、表が青の銀、三輪の黄金の百合を紋章として持つヴァロア家の末裔である。9歳の時に両親が他界し孤児となった。その後領地は没収、館は焼失という運命が待ち受ける。少女時代に物乞いをしていたところをド・ブーランヴィリエ侯爵夫人に引き取られ、貴族の子女としての教養を身につける為にロンシャン修道院の寄宿女学校に入った。しかし22歳の時に修道女になる事を嫌い、妹と共に逃亡。一文無しの放浪生活を送るが、バル・シュル・オーブの旅籠屋で知り合った憲兵将校マルク・アントワーヌ・ニコラ・ド・ラ・モットと結婚し、ド・ラ・モット・ヴァロア伯爵夫人と名乗った。時に1780年6月の事である。

ド・ブーランヴィリエ侯爵夫人はジャンヌの不義理を責めはせず、彼女にルイ・ド・ロアン枢機卿を紹介。この機縁によって夫ニコラは王弟竜騎兵付大尉となった。ド・ロアン枢機卿は高貴な生まれを持ち高職に就いていた人物だが、その品行からオーストリア・ハプスブルク女帝マリア・テレジアから嫌われ、その母同様王妃マリー・アントワネットからも厭われていた。しかし彼は王妃の覚えに預かりたいと願っていた。ジャンヌはド・ロアン枢機卿を操っていたイタリア人のペテン師ジョゼッペ・バルサモ(俗にアレッサンドロ・カリオストロ伯爵)にも近づき、ド・ロアン枢機卿にも王妃の親しい友であると信じ込ませた。彼女は秘書官であり愛人のレトー・ド・ヴィレットに王妃の偽手紙を書かせ、またパレロワイヤルで娼婦をしていたマリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後のド・オリヴァ男爵夫人)を王妃と偽ってヴェルサイユの庭園に連れ出し、ヴィーナスの繁みでド・ロアン枢機卿と会わせた。こうしてますますド・ロアン枢機卿はジャンヌの巧みな嘘に騙されたまま王妃の慈善事業への多額の寄付を行い、それはジャンヌに渡っていった。借金を重ねていたラ・モット夫妻の生活が一変したのはいうまでも無い。

1784年11月王室御用達細工宝石商ベーメルとバサンジュの二人から高価な首飾りが売れなくて困っているという話を持ち込まれ、ジャンヌは王妃との仲介役をかってでた。勿論王妃に面識があろう筈が無い。この首飾りはルイ15世の公式寵妃デュ・バリ伯爵夫人が国王にねだり、宝石商ベーメルによって大小600個ともいわれるダイヤモンドで作らせた一品であったが、国王の死去、デュ・バリ夫人の宮廷からの追放によりベーメルの手に残ったものである。ベーメルはこれを王妃や各国の王侯を相手に話を持ちかけたが、その余りの巨額な値段に買い手がつかず破産寸前だったのである。ド・ロアン枢機卿を巧みに操り、これを騙し取ったジャンヌは即座に首飾りを解体してニコラに国外で売りさばかせた。その結果巨額な財産を手に入れ、バル・シュル・オーブの豪邸に引っ越した時は24台の馬車が必要だった程だったという。しかし大悪党になりきれなかったニコラは後に妻の元を去り、いずこかに姿を消す事になる。

1785年8月15日に「首飾り事件」が発覚。国王裁可に持ち込もうとしたこの事件は高等法院に委ねられる事となりド・ロアン枢機卿が逮捕され、同18日にジャンヌも逮捕された。1786年5月31日首飾り事件の最終判決は16時間に渡って審議され、首謀者とみなされたジャンヌは一切の罪を負わされた。ジャンヌには鞭打ちと、両肩に焼き鏝で「Vlevse(泥棒)」の頭文字「V」を押されサルペルエール監獄に生涯監禁という刑が下された。因みに他の関係者は次のような判決が下る。夫ニコラは既に国外に逃亡中、ド・ロアン枢機卿は無罪(但し半世紀後までド・ロアン家には宝石商からの賠償請求を受けた記録が残る)、レトーは国外追放、ニコルは無罪、バルサモも無罪。6月21日早朝、ジャンヌに刑が執行されたものの、激しい抵抗により焼き鏝は間違って胸に押され、更に肩に押された。ジャンヌには多くの民衆から同情が寄せられ、いつしか彼女は監獄から逃亡、イギリスへと渡る。「首飾り事件」はただの詐欺事件には終わらなかった。後にこれがフランス革命の発端となったといえるのは、この事件が王室の品位を貶め泥を塗ったばかりではなく、王室の現状が白日の下に晒されたからでもある。またジャンヌの逃亡は王妃が関与していたという疑問と想像を民衆に抱かせた。実際その逃亡に手を貸したのは誰だったのかは分かっていないが、一説には王位を狙う国王ルイ16世の従兄オルレアン公爵ともいわれている。ロンドンに身を潜めていたジャンヌは「回想録」を出版、「首飾り事件」のあらましや王妃との同性愛関係を書き、王妃の名誉を傷つけた。
しかしフランス革命下の1791年に精神錯乱の発作により窓から転落。一説には潜伏先のロンドンで強盗に襲われた為に窓から転落したともいう。ジャゴバンクラブの人々は亡命中のジャンヌを革命裁判所に呼び寄せ首飾り事件の再審議を考えていたものの、彼女の急死によってそれはなされなかったという。余談だが1844年に「ジャンヌ伯爵夫人」と呼ばれた女性が亡くなっているが、これが彼女その人であったとパリの社交界では噂された。



■ベルサイユのばら■
オスカルの「春風」ロザリーの姉として描かれるジャンヌは、野心に満ちた人物ですね。まさに黒薔薇。ブルボン王朝よりも古いヴァロア王朝の血を引きながら、貧窮のどん底から這い上がって大貴族の一員として暮らしたいという夢を持っている。それ故、どんなに自分の手を汚してもそれを厭わない。どちらかというとジャンヌはアニメ版の方が好きなんです。たくましく狡賢いから(^^;)。そして最期が悲しくも美しいではありませんか。彼女の「ジャンヌ・ヴァロア回想録」は当時のベストセラーだったそうですが読んでみたいですね。好奇心♪



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