このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

TASOGARENOYAKATA

ジャルジェイ侯爵(将軍)

フランソワ・オーギュスタン・オーギュスト・レニエ・シュバリエ・ド・ジャルジェイ
(1745.10.2〜1822.9.11)

オート・ザル県ウペに生まれる。14歳の時、叔父の部隊に入隊。その後補給隊・近衛隊・参謀本部に配属され、ルイ15世・ルイ16世両君の治世を軍務に励む事になる。1787年にルイーズ・ド・ラボルト(フィリップ・ヒンネル未亡人)と再婚。ルイーズは王妃マリー・アントワネットの信頼厚い侍女で、ジャルジェイ侯爵と共に熱心な王党派として国王夫妻の傍らにあった。

バスティーユ牢獄陥落後の1791年に少将に任じられ、1792年に元帥府に列度。フランス革命下では数多くの叛乱を鎮圧している。ルイ16世処刑後の1793年3月10日、王妃救出の為にタンプル塔へと赴くが王妃は受けず、プロヴァンス伯爵(後のルイ18世)へフランス王国の国璽と国王の指輪を、ヴァレンヌ逃亡事件に荷担したフォン・フェルセン伯爵に王妃の指輪を渡すようにと命じられた。王妃の裁判では弁護人となり無罪を主張するも力及ばす彼女は10月16日に処刑された。同年、サルディニアに亡命し、1797年に帰国。ナポレオン治世の1800年にはオーストリア・ウィーンの王党派と合流し、1815年には中将となっている。ブルボン王家の復朝が見られた1822年にパリ郊外のフォントネ・オ・ローズで没す。


■ベルサイユのばら■
オスカルの父親として登場するジャルジェ将軍は、純然たる貴族で王家の信頼厚い軍人であり自らもその忠誠を最後まで押し通しています。娘オスカルを後継ぎとすべく男として育て接してきた一方、そういう生き方を強いたが為の愛情は他の娘達よりも強かったと思います。女性として生きられないオスカルを不憫に思う事は、多分フランス王国がああまで荒れなければなかったんじゃないかとも思うのです。そういった意味で、革命が起らなければオスカルは男装の麗人として生涯を生きる事になったかもしれません。

意思の通し具合はやはりこの親子、頑固なところは同じ。でも少しだけ娘に対して甘い部分もあるようです。夫人とは当時としては珍しい愛情ある家庭を作っていますし、娘夫婦や孫とも家庭的な交流があり、ジャルジェ家で面倒を見る事になったロザリーに対しても専制貴族としては優しく接しています。ジャルジェ家に務める人々はそういう意味で楽しい日々が送れていたかもしれないですね。しかし軍人として貴族としての立場は彼の中ではそう簡単には崩れず、オスカル没後もまだまだ現役。フェルゼンに協力したりアントワネットの救出を画策したりとバリバリなところは凄いです。

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