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TASOGARENOYAKATA

フランソワ・ブーシェ
(1703.9.29〜1770.5.30)

彼の画家としての才能はその環境が養ったといっても過言ではない。刺繍図案家の父親を持ち、長じて画家フランソワ・ルモワーヌや、版画家ローラン・カールの父であるジャン・フランソワ・カールの指導を受ける。1723年にローマ賞を獲得し、1723年から1731年にかけてイタリアへ留学。ここではティエーポロ、コレッジオなどの影響を受けたと思われる。1731年に帰国し同年『ルノーとアルミッド』によって王立アカデミー入会資格を得、1734年に入会作品として『リナルドとアルミーダ』を提出。正式会員となった。その後活躍の幅を広げていった彼は、ルイ15世の王妃マリー・レクザンズカ、愛妾ポンパドゥール夫人の後ろ盾を得る事になる。タブロー画やヴェルサイユ宮殿の王妃の間、スービーズ館のサロンなどの(壁面)装飾画も制作。ポンパドゥール夫人はブーシェ庇護しつつも自らの絵の師として迎えている。またセーブル磁器の制作にも関与し、1755年に王立ゴブラン織物工場監査長となり、1765年にはルイ15世の王室付首席画家となりアカデミー総長にも任命された。この他、ボーヴェのタペストリー下絵や舞台装飾も手がけている。1770年5月、パリに生まれたブーシェはパリに没し、同時代を生きルーブル宮殿に住んでいた多くの芸術家が眠るサン=ジェルマン=ロクセロア教会に同じように眠っている。1日10時間の仕事をし生涯に描いた作品は大小1万点といわれる。『百科全書』で有名なディドロ曰く「優雅さ、甘ったるさ、空想的なギャラントリー、コケットリー、安易、変化、輝き、化粧っぽい肌の色、みだらさ」の溢れるロココの画家の代表。実はジャック・ルイ・ダヴィットは遠縁にあたる。

■代表作■
『ポンパドゥール夫人』 1756年に描かれたローブ・ア・ラ・フランセーズに身を纏った姿を描いたもの。
『ディアナの水浴』 ルノワールが好きだったらしい。

■ブーシェについて■
『ポンパドゥール夫人』で見せるゆったりとした画風はとても好きですね。レースの繊細な描写がおおらかでいてちょっとした細かい部分には妙にこだわりをみせそうな姿を想像させてくれます(笑)。そういえば長野市のホテル犀北館のチャペルにはブーシェのゴブラン織りのタペストリーがあったりします。私は実物を見た事はないのですが絵葉書がとても綺麗だったのです♪ヴェルサイユに宮廷が移ってからというもの元々の王宮ルーブルはいつしか様々な人が入り込んでいました。あのような大きな宮殿では管理している人がいても目がなかなか届かないって事でしょうか。画家の多くもここをアトリエにしていたようです。

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マリー・エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン
(1755〜1842.3.30)

マリーが7歳の時に描いた『ひげのある男』で、肖像画家の父親ルイ・ヴィジェは早くからその才能を見抜いた。そして女性であるにも関わらず画家としての修行を始めたのは13歳の時である。グルーズに指示し、感傷的で優美な画風やその色使いを会得。1776年に画商のルブランと結婚。しかし夫婦仲は冷ややかだったという。1779年に王妃マリー・アントワネットを描いた25枚の肖像画の内の第1作目を完成、認められた。以後、彼女は王妃の友としてその側にあり、宮廷の人々や著名人を描いていく。1783年には国王ルイ16世の推挙により王立アカデミーに入会。この頃が彼女の一番の爛熟期となる。彼女は上流階級の織り成す社交界を好み、そこで知り合った人々の肖像画を描いていくのだがその絵筆は巨万の財産を生み出していった。しかし浪費家の夫はその財産を食い潰していく。1789年7月フランス革命が勃発し、王政が危機に瀕すると共に亡命者も相次いだ。マリーもその1人で10月のヴェルサイユ行進の後、一人娘ジュリーを連れてローマへ亡命する。彼の地ではアカデミーに推挙されるなど功績は大きかったが、パリでは親族たる夫や兄弟たちは投獄される憂き目をみる事になる。ローマでの滞在以降は1805年の帰国までナポリ、ヴェネチア、ウィーン、ドレスデン、ベルリン、セントベテルブルク、モスクワを巡り、その後イギリスに渡った。ナポレオンの帝政下に帰国。しかし既にその画風は時代遅れとされ、マリー自身もナポレオンとは折り合いが悪かった為、外国生活を余儀なくされた。因みに1813年に夫ルブランが、そして1818年に娘ジュリーが相次いでこの世を去っている。ナポレオンが失墜し、ルイ18世の王政復古が果たされると彼女は帰国。姪のリヴェイエール夫人の肖像画を遺作として此処に没した。

■代表作■
薔薇を持つサテンドレスのマリー・アントワネット』 マリー・アントワネットを描いた最初の物といわれる25歳の時の作品。
マリー・アントワネットと子供たち』 1787年作。この時空っぽのゆりかごが描かれているのですが、これは生後僅かにして亡くなったソフィー・エレーヌ・ベアトリス王女を描く予定だったともいわれています。


■ルブラン夫人(マリー・エリザベート)について■
『ベルサイユのばら』にも画家として登場。その時のマリーは身ごもっており、同い年でありながら子供がいなかったマリー・アントワネットを羨ましがせています。ゆったりとした空間があるような画風が素敵ですよね。マリー・アントワネットが彼女の絵を好んだのは、当時の肖像画家がリアルに忠実に彼女の欠点さえも絵に描き出してしまうのに比べ、そういうところを消し去ったような理想的な自分の姿を描き出す事が出来たからだといわれています。マリーの描くマリー・アントワネット像をそれを踏まえた視点から見てみると、「修正された」もの、つまりは本物とは違う姿という事になるのです。
初めて実物の『マリー・アントワネットと子供たち』を見た時、やっと会えたなという気がしました。アントワネットにもマリーにも。彼女は回想の中で自分も含めて皆んなが美しく全てが幻影のようだったと語っています。確かに美人なのよね。革命が壊した物は彼女にとって青春であり夢の空間だったのかもしれません。そういえば某アンティークショップで彼女と娘ジュリーの肖像画を印刷したフランスの石鹸入れ(紙製)を見かけました。こういうところにも彼女の絵が使われているんですね。

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ジャック・ルイ・ダヴィット
(1748〜1825.12.29)

パリに生まれ、早くに両親を亡くした事から叔父に育てられる。ヴィアンに指示。アカデミー・サン・リュックに学ぶ。1774年に『アンティオコスとストラニケ』でローマ賞を獲得し、その後1780年までイタリアに留学する。この間に当時の流行であった古典主義に傾倒し、後の作品に影響を与える。帰国後の第1作目は『施しを受けるベリサウルス』。1784年には宮廷画家となるものの、フランス革命勃発後は熱心な革命家となり国民公会議員にもなっている。王立アカデミーを廃止しているところがいかにも画家らしい。ロベスピエールらと交遊し、国王ルイ16世の処刑にも賛成票を投じている。1793年から1794年の間は文教委員、保安委員などを務め、国民公会議長にも選出されている。因みに王党派の彼の妻はこの過激さに不安を覚え、彼の元を去っている。テルミドールの反動でロベスピエールやサン・ジュストらが逮捕・処刑されると、ダヴィットも当時牢獄であったリュクサンブール宮に数ヶ月の投獄を余儀なくされた。釈放後、彼を支援したのは去っていった妻の存在だった。1797年ナポレオンに出会い、総領政府、ナポレオン帝政下では首席画家となって多くの作品を残す。しかし1818年にナポレオンが失墜しブルボン王朝が復権すると、かつて国王処刑に票を投じた事が罪に問われ国外追放となった。この為ブリュッセルに亡命し、後に帰国を許されるが動じず1825年に没した。

■代表作■
『マラーの暗殺』 シャルロット・コルデに殺害されたマラーを描いたもの。腐乱していく遺体には防腐加工をし、舌を抜き腕を取り替えて完成させたという力作です。マラーを英雄的に描くという観点から、病身であった事実を脚色しかなり力強い人物として描かれています。二の腕とかね。
『ナポレオン一世の聖別式とジョゼフィーヌ皇后の戴冠』 ジョゼフィーヌを快く思わなかったナポレオンの妹達は実際にはこのように裾を持つような事はなかったともいわれています。またナポレオンの即位に反対していた母・レティツアはこの式典に出席しなかったといいますが、こちらの絵ではちゃんと描かれています。この時の衣装は神戸ファッション美術館で再現。

■ダヴィットについて■
ダヴィットは歴史画家でもあるので、かなり興味深い人です。でも絵だけを見ると革命家だったとは思えません。でも革命祭典に熱心だったといいますし。彼は結構世渡りが上手いですよね。フーシェみたく時代の風に敏感だったのかもしれません。ルイ16世の宮廷画家、公安委員、ナポレオンのお抱え画家。お陰で彼の絵からこの時代を学ぶ事も出来ますね。彼の作品には大作が多くて、なかなか日本ではお目にかかれないのが残念。でも『マラーの暗殺』は見た事があります。フランス革命の真っ只中、それもその真ん中で描かれたもの。この絵の向こう側には叫ぶ革命家の人達の姿があったでしょうし、いずれは断頭台で命を散らす事になる人がいたかもしれません。200年という時間が迫ってくるような感じがしました。
ダヴィットが画家を志すと決めた時、困った叔父さんは遠縁であるブーシェに相談した、なんてお話もあります。思わぬところで画家繋がり。

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