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読書ノート
シンポジウム 日韓古代史の謎 朝日新聞社編 1992年7月25日第1刷発行
1990年5月16日/東京・有楽町朝日ホール
内容:日韓古代史の専門家のシンポジウム
出席者: 金元龍=キム・ウオルリョン(ソウル大学名誉教授)、
李基白
=イ・キベク(翰林大学校教授)、韓 炳三=ハン・ピョンサム(Han Byong-sam、韓国国立博物館館長)、大塚初重(明治大学教授)*、井上秀雄(東北大学名誉教授)、上田正昭(大阪女子大学学長)、西谷正(九州大学教授)
*司会
シンポジウムの背景:
藤ノ木古墳
(570〜580)の発見(1985年・奈良県)以降、
吉野ヶ里古墳
の発掘、韓国慶尚南道・
茶戸里
での2000年前の木棺発見など紀元前2世紀〜7世紀の日韓の古代史に関わる発見が相次いだ。日韓古代史の中では双方の交流が密であった。 そのような中で独自の文化がそれぞれに開かれていったと考えられる。
どのようにしてお互いが刺激しあったのかを話し合う気運が盛り上がった。(=(平成2年)1990年5月24日韓国大統領訪日、日韓友好年も背景にあったのか?)
この本はシンポジウムの内容を収録したものである。シンポジウムで話された内容を正しく系統的に理解することは困難であったが、話された内容は日韓古代史の見方に関する重要なヒントをいただいたと思う。たとえば以下のようなことである。
○倭国と朝鮮半島の交流 人は新天地を求める=寒い土地から暖かい土地へ=船を使って海峡を渡る。北(半島)からは人・物が入る→日本列島の人口増加・物の改良(稲作)、発展(銅鐸)。 南から北へ物と人の移動(戦争)→物は残るが人は引き上げる(敗戦・国交断絶・鎖国)。
○藤ノ木古墳=仏教伝来と受容を示す遺品=中央集権国家の誕生(遺品=馬具)を意味している。
○中国の文化、社会のしくみ→まず百済、高句麗に伝わった。その原因=支配・被支配(朝貢)の関係ができたため。 仏教の公認後の韓半島の動きを下に示す。 李基白 先生報告
国名 (公認年) | 律令制度 | 国史編纂 | 大学設立 | 領土拡張 |
高句麗(372)→ | (373) | 国初 | (373) | (391〜412) |
百済(384) | ? | 346−375 | ? | 346〜375 |
高句麗→新羅(527) | 520 | 545 | 514−540 | 540−576 |
仏教の輸入=倭国(538、6〜7世紀) へは百済から入る。(なぜ中国から直接入らなかったのか?)
その後、朝鮮との交流断絶=中国との交流開始 (なぜ中国から直接入るようになったのか?)
弥生人と韓半島からの渡来人の関係(なぜ倭国は渡来人を受け入れたのか)
○渡来人たちは倭国において独自の集団を作った。彼らの一部は利益誘導にも屈しない、容易に同化しなかった。
このグループが埼玉の高麗郡の設立につながった(朝廷が庇護し官給を与えていた渡来人集団が、神奈川県大磯を経由して武蔵の国に移住した)のではないか。その子孫と見なされている埼玉県日高市(現)高麗家の祖先には修験者が存在するが、修験者=宗教者という存在であったからこそ、「歴史に孤立した存在」でありえたのではないか。
同様の歴史は朝鮮を日本帝国主義が支配した当時、ソ連領内に「亡命」朝鮮人の集団が存在し、革命を標榜しつつソビエト政権のひごを受けながら、容易にソビエト政権に同調しないグループが形成されていたこと共通点がある。
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