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日高と天皇
第9回 満蒙開拓団と日高
以前、中国残留孤児を題材とした山崎豊子さんの「大地の子」と言う小説がNHKのテレビドラマとなって放映されました。主人公の陸一心(ルー・イッシン)は長野県木曾の出身です。長野県は山が多く農業を行うには土地が狭く苦労が絶えませんでした。 長野県は現在の中国東北部に満蒙開拓団として7万余の県民を送り込み、(「満州開拓史」(開拓自興会)によるとその数33741名で、全体で約27万人)49%の人は、再びはふるさと信州の地を踏む事ができなかったという痛恨の歴史をもっています。特に子どもと女性が犠牲になりました。そして中国残留孤児,や残留婦人を多数生み出しました。 → 長野県諏訪市博物館関連資料
第2次世界大戦が勃発するよりも早く、1928年に日清日露戦争の見返りに獲た日本の南満州鉄道の権益拡大を阻止しようとして、平行鉄道や支線を張り始めた清朝の軍閥一家の張作霖が新設の鉄道橋ごと爆殺されました。 軍閥とは中国の支配権力・清朝の衰退とともに中国国内に起こった権力闘争集団を指しますが、この時代は清朝・軍閥・革命派そしてこれに干渉した各国の軍事勢力が互いに競っていました。 満州に展開した日本の軍隊「関東軍」は昭和6年(1931年)9月18日に柳条湖の1発の銃声を理由に開戦、中国東北部に進出(満州事変)、昭和7年(1932年)満州国が建国されました。
満州国とは1932年から1945年の間、満州地域(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)に存在しました。満州民族の立てた王朝であった清の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のちに皇帝)とし、満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満州人」による民族自決の原則に基づいた国民国家であることを理念としました。 しかし実際には、1931年の満州事変によってこの地域を占領した日本の政府・軍の強い影響下にあり、当時の国際連盟加盟諸国は、「満州国は日本の傀儡国家であり、満州地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが1933年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となりました。 第二次世界大戦の日本の敗戦、ソビエトの侵攻によって満州国が解体され、ソビエトから中国共産党の支配地域となると、この地域において独立を宣言した満州国は断罪の対象となり、戦後の中華人民共和国では、偽満州国(あるいは省略して偽満)と呼ばれることもあります。
満蒙開拓団とは1931(昭和6)年9月の満州事変以後、中国東北地方に渡った農民移民団のことですが、この満州国建国の直前から移民を開始していました。 関東軍は1919年に設置された、中国の関東州と南満州鉄道の警備をする日本陸軍部隊でしたが専断的傾向が強く、中国側の利権回復の民族主義の高揚を目前にして、幣原喜重郎内閣の外交協調主義路線を否定する指導者が多く、内外問題の一挙解決を目的として満州事変を引き起こしたのです。 (1941年の独ソ戦勃発時には、関東軍特殊演習(関特演)と称した動員の結果、約70万の大軍をそろえました。) 1936年8月、広田内閣が20カ年に開拓移民100万戸を入植する計画を決め、満蒙開拓団は本格化しました。 昭和12年(1937年)7月、華北濾溝橋に戦端が開かれました。政府の不拡大方針に逆らって陸軍は進撃、戦火拡大し日中戦争が始まりました。 戦火が中国大陸に広がると同年9月国家総動員法が発令、軍が発表する中国戦線の戦果に国民は酔いしれ満州へ満州への気運が盛り上がっていきました。 当時の地方自治体は政府の方針に従い自治体として満蒙開拓団を組織しました。 村や町レベルの単位で組織されたため同郷意識が強く、過半数の住民が開拓団に加わった自治体もあったと記録されています。 1937年11月には「満蒙開拓青少年義勇軍」を軍事的見地から配置すると閣議決定。 満州に渡った訓練生達は寧安、大石頭など各訓練所を経て指定された入植地に向かい「大和郷」建設にはげみました。
しかしそれらの土地は関東軍に後押しされた満拓が中国国民からタダ同然で買い取ったものでした。 このように日本人の入植者たちによって土地を取り上げられた中国人たちは、日本の敗戦を機に満州開拓団の人たちに報復を行いました。ソ連参戦・武装解除によって男達はソ連に抑留される中、残された婦女子や老人たちへの暴行、財産の取り上げが各地で頻発しました。 個々のケースについては精査が望まれますが、残された手記のほとんどはそれら悲惨な記録に満ちています。入植当時の晴れ晴れとした気持ちが、日本の敗戦により一転して痛恨のきわみの逃避行に転化した満州開拓史は、侵略戦争のもたらす末路として今日の日本人が特に銘記すべきものです。
満蒙開拓団に関する当時の日高の雰囲気を伝えるものとして、高麗小学校100周年記念事業誌に掲載された作文がある(高二女「 私の希望 」)。 この作文にもあるように、国家総動員法による天皇独裁体制の下、「行け満州へ」の国策の中で子供達は純粋に満州への夢を描いたのでした。 そして昭和13年3月(1938年)満蒙開拓青少年義勇軍への志願者として5名の少年達が満州へ渡ったのでした。 以下は満蒙開拓青少年義勇軍に志願した日高出身の町田幸二郎氏の力作「曠野の彼方」の紹介です。
「曠野の彼方 満蒙開拓青少年義勇軍」 町田幸二郎著 を読む
とびら 「差し招く 満蒙の野に 我行かむ 使命に立てリ 五人の男児」 馬場治朗校長の激励文
写真 (浅見、丹下、町田、斉藤、大野)の生徒たちと馬場校長、篠田担任教師との記念写真。
写真 内原訓練所 渡満を前に松林で集合写真 中央の髭様が湯田中隊長(湯田矩冶)
写真 寧安訓練所、夏服、冬服 衛門立哨中の村田 湯田中隊長肖像(30代にして光頭・髭面・慧眼)
写真 大石頭訓練所 三上幹部と仲間達 中隊正門と衛兵所
写真 大石頭神社 大石頭街を望む(神社山) 全景雪に囲まれているが所どころ黒い部分あり
写真 大石頭訓練所長 陸軍少将川原閣下 軍服・勲章・帯剣姿、軍帽に星印
写真 入間郡父兄会来満記念 9名 父兄全員防寒服に身を包み並ぶ
写真 第一次大和義勇隊開拓団 開拓団全景 山を背に整然と並ぶ家屋 周りは雪
写真 結成式場・礼拝場 矢来のような囲いの中に2本の木と木製の碑文
写真 正門前集合写真 左側正門に「大和郷」の看板、右側に衛門立哨中の同士
写真 日本馬勢揃い 厩舎の前に馬と人が並んで記念撮影
写真 拓魂祭 聖蹟桜ヶ丘公苑 167本の団碑 毎年4月第2日曜日に集う
まえがきより
(犠牲者8万人の)「義勇軍」とはなんだったのか! ・・なぜ開拓団から残留孤児 数千人が出現したのか? ・・・戦争を知らない吾が子に、次代を担う若者たちに悲惨を極めた満州開拓団の崩壊を、そして「戦争は二度と起こしてはならない」と声を大にして叫ぶ。それが死の淵から生還した者の義務であり、また、犠牲者への手向けである。 戦後40年余、強引に戦争へと突っ走っていった軍首脳部の隠された戦記物や、満州開拓団の悲劇等の単行本が本屋の店頭に並んでいる。また郷里の親に宛てた手紙も多く残っているので、年月日等も間違いは無いと思う。図書館にも足繁く通って、昭和61年春、筆を下ろした。
発刊を祝って(AM氏)
・・・執筆にあたっては往時の事実関係に焦点をあて・・・大和郷に関係したであろう人々から証言を求め・・・その数は30名を下らない。・・・いま義勇軍とは、と自問したとき・・・人生の中で消しがたい重みであった・・・民族の尖兵の役割を大和郷建設に傾けた情熱が懐かしい。 敗戦と共に総て無に帰したが、その残影は心の疼きとなって蘇る。(AM氏は元市議会議員で、義勇軍の一員。日高市在住)
義勇軍の誕生(義勇軍記)
昭和12年(1937年)7月日中戦争勃発、9月総動員法発令、満州国移民大々的に報じられ国民の目は大きく満蒙の地に向けられる。11月30日、茨城県友部町日本国民高等学校校長で満州移住協会理事
加藤完治
ら「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」が近衛内閣に提出、即日閣議決定。 翌13年1月には義勇軍募集要綱によって訓練生の募集、入所が勧められた。 昭和13年度、三万名を目標に各都道府県に対し送出割当人員が指示される(幕開け)。「拓け満蒙 行け満州へ」などの募集ポスター(これらは学校の門に貼られた)と、武装移民の渡満風景、トラクターによる荒野開墾の映画、後援会などの宣伝に、少年達は夢見るように一も二も無く義勇軍に志願した。 官民一体のアピールは先遣隊の募集枠に2倍の少年達が応募した。 貧しさからではなく、純粋に理想郷の建設の夢を求めたもの。 ベルリン五輪の記録映画「美の祭典」(1938年)と「民族の祭典」(1938年)を、ナチス政権下の映像作家レニ・リーフェンシュタールが製作、それらは日本の学校行事として上映・鑑賞されるなど、時代の風が子供達の進む道を決定した。 埼玉県浦和市埼玉会館での壮行会では河西知事の激励の辞に答し、代表が宣誓文を読み上げる。一同揃って茨城県内原農場に出発した。これがエピローグである。(続く)
開拓記
関東軍記
敗戦記
逃亡記
孤児記
この稿参考文献
曠野の彼方(あれののかなた) 満蒙開拓青少年義勇軍 町田幸二郎著 日高市立図書館蔵
満蒙開拓団に関するドキュメントへのリンク
内原訓練所跡地に関する
史跡HP
「満蒙開拓と長野県
今だ語り明かされていない、日本の近現代史
」
諏訪市博物館所蔵品リスト
一覧表
拓け満蒙 復刻案内
東方書店
複写版
『たどりついた命の大地 〜阿蘇外輪の開拓村から〜』
(制作 テレビ熊本)
蒼い記憶
長編アニメ映画
中国在留日本人の子弟が纏めた「
日本と中国
」 大阪府立松原高校27期生 姚 維娟
シベリヤに眠る父・信蔵の生涯
異国の丘
(小島よしゆきのページ)
拓殖教育とは何か? 日本の敗戦と機に忽然と消えた拓殖関係学校に焦点をあて、教育史・学校史に位置付けた本が「自費出版」として発行された。
もうひとつの学校史
著者 佐藤一也 光陽出版社
内原訓練所の教師・リーダーは拓殖教育を受けた卒業生がなった。
全国の満蒙開拓の教育訓練の費用は国が支出した。
ブラジル移民など満州を除く移民事業はその受入国自身が募集した。 ・・・など満蒙開拓団を送りこんだ当時の教育的背景が学問的見地から調査・分析されている。 500部印刷。
現在の拓殖教育 内原訓練所、(社)日本国民高等学校協会にのもとに「日本農業実践学園」と姿を変えて日本政府より平成12年度に1億2千万円の補助金(農村青少年研修教育団体事業補助金)、茨城県より農機具などの補助、全国競馬・畜産振興会より諸設備の供与を得て活動している。本部は茨城県東茨城郡内原町内原にある。会長は森田一氏 学校名は「日本農業実践学園」学園長は加藤達人氏
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