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読書ノート 金達寿 日本の中の朝鮮文化
書名 日本の中の朝鮮文化 講談社学術文庫 
1970年 初版印刷 1983年文庫版、2001年9月。復刻 私書。 

金達寿 1919年生まれ、1997年没


目次—相模国の遺跡、武蔵野の年輪、北多摩の古墳、甲州街道から浅草へ、武蔵を後に下野へ、足利・秩父の渡来人、房総・常陸をたずねて、上野に残された痕跡。 


読後感
武蔵野の年輪=高麗家は大磯を経由して日高にやってきた。それ以前にも朝鮮から渡って来た人々が居た。系図あり。雅楽の伝承、山伏修験者など文化的な継承に注目。現在の高麗家の人(高麗神社の神官)はこの人たちの子孫。若光が始祖。新井家のこと、野々宮、駒井、姓は別派の人々の末裔。祭礼の際に多くの在日朝鮮人が集まる。1970年当時、朝鮮から来た人をもてなす習慣があった。現在の風習が朝鮮からのものか日高市史(通史編)で確認要。高麗川の北側は神社や祭礼に関する施設が山の上に作られた。南側、小畔川流域、に集落が展開。高萩あたりが郡の中心か。聖天院=勝楽寺。高麗神社の分社=白髭神社(飯能に多し)。戦前、戦後の高麗郷の風景や人々、町並みが描写されている。


移された理由=百済からはみ出していた。日本に来て官給により生活、再興を願っていたが朝廷のある目的のため、東国に送られた。大磯で拠点を構えたが官位を得て武蔵の国を与えられ、高麗郷を成立させる。キーワード(銅)土器は自らが使用するため窯を構築、生産された須恵器は自消のためと販売を通じた収益をもたらした。廃寺の理由は明治期の神仏分離? 


神仏分離令(しんぶつぶんりれい)とは、1868年(明治元年)3月に神祇官より出された通達。明治以前の従来の神仏習合の慣習をやめ、神道と仏教の境をはっきりさせた(神仏分離)。神仏分離の傾向は江戸時代より各地で起こってきており、水戸藩や淀藩など独自の神仏分離令を出した藩もある。寺院や仏像を破壊する廃仏毀釈運動を招いた。これにより廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、1872年(明治5年)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となった。

この運動は明治以後、第二次世界大戦の敗戦まで一部の過激な神道家が行ったものの、民衆には普及しなかった。現代でも神社と寺院の違いが判らない者も多いという。中には神仏習合の風習を受け継いだり復興させたりするところもあるが、神道、仏教のそれぞれの内部では、お互いに忌避するむきもある。第二次世界大戦後の"国家と神道の分離"により国家神道(神社神道)は解体します。そして,国家神道(神社神道)のもとに編成されていた神社は,神社本庁を組織し,1つの宗教法人として再出発した。

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