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出生地編 (1943年〜1950年)
1943年9月、東京都足立区大谷田1丁目に生まれる。戦前、父親は日立の戦車工場の徴用工であった。物心つくころには「福寿荘」に両親と住む。福寿荘は木造2階建てで長い廊下を挟んで部屋が並び、廊下の突き当たりは玄関でその脇に共同便所があった。炊事場は各部屋には無く、おそらく共同炊事場があったのではないか。部屋は所帯あたりニ間であったと思う。そこの1階に我が家があり、廊下を挟んでその反対側に祖母達も住んでいた。その福寿荘の脇を
日立製作所戦車工場に通ずる鉄道線路
が走っていて、その線路を大きな蒸気機関車が貨車を引いて通ったのをわずかに記憶している。線路の向こうは一面畑で夏にはさとうきびかとおもろこしの背の高い作物が植えられていた。
福寿荘は道路に面して建てられていたが、道路と建物の間は用水が流れ、小さな橋で福寿荘と道路は接続されていた。福寿荘の周りは用水沿いに家がならび、やぎを飼っていた家があった。そこで子やぎが生まれたのを鮮明に覚えている。父はその小川に子供を乗せたたらいを浮かべ上流から下流に流してはキャーキャー遊ばせた。手先の器用な父は福寿荘の窓辺に座り、桃の種を小刀で加工して桃の種を穿ち、小さなサルが入っているものを作ってくれたことがある。
戦後まもなく弟が生まれたが、そのときは大きなたらいにお湯をはり、大人達がそうがかりで弟を取り上げた。正月になると獅子舞が家々を訪れる。玄関先で獅子を舞うのであるが、いきなり大きな口をあけてぱくりと頭をかじられた。おお泣きをして部屋に戻った。父はそのような縁起ものが好きで、何か家の行事があるごとに獅子舞やら芸人を家に呼んでいた。子供のしつけには厳しく、そそうをしたといってはよく折檻された。頭をたたかれるのはしょっちゅうであった。
夏祭りの季節には町内のおみこしが出た。おしろいを鼻に塗った顔に花笠を付け、「小若」と襟に染め抜いたはっぴを着て白の地下足袋を履き、手には花でかざった精進棒を携帯して祭り行列の先頭を歩かされた。秋になると台風が来る。大水が出ると用水があふれるほどになる。水が引いたあとの用水に魚がたくさん逃げ込んでいるので、おとなもこどもも大勢で魚を追いまわした。
近くにいとこが住んでいたのでときどき遊びにいった。その場所は現在の中川3丁目で、お墓のそばであった。現在の地図で調べてみると「真言宗善応寺」とある。このお寺は江戸時代、吉原遊女の投げ込み寺であったとのことだ。いとこの親の本家は中川の近くのかわらやで、なんどか遊びに行った記憶がある。いとこの家に行くにはまた別の小さな用水を渡らねばならないが、小さな橋がかかっていて、その橋の袂には夏には氷やがあったと思う。その氷やの用水を挟んだ反対がわに共同浴場(銭湯)があって、その銭湯にはよく行った。銭湯の入口の脇にも駄菓子やがあり、たしか50銭で飴玉を売っていたと思う。
映画は駅前の映画館で観た。片岡千恵蔵の怪傑黒頭巾を覚えている。雨の中、長い線路を辿りながら駅まで往復した。家の近くには送電線の鉄塔がありその下に池があって父はその池でザリガニとりをした。えさをつけた糸をよどんだ池にたらすと、すぐにザリガニが吊り上げることができた。そのザリガニを石油缶にいっぱいに入れて家に持ち帰った。池の中にはだしで入って、ガラスで足を切り血だらけになって家に帰ってきたこともあった。
中川の土手の近くに床屋があり散髪はそこでしたと記憶している。夏のシーズン、水遊びは父に連れられてその中川でするのが通例であった。川には常磐線の鉄橋がかかっており、子供心にずいぶんと川幅の広い川であったと記憶している。土手の下は葦が生い茂りみみずのような「ごかい」が住んでいた。そんなことにはおかまいなく真っ黒になるまで遊んだ。川遊びにいっていたとき、子供が川にはまり溺れ死んだときがあった。父は途中まで助けに行ったようだが、流れが速くあきらめて戻ってきたと聞いたことがある。町の衛生状態が悪いのでDDTの散布もいやな思い出だ。進駐軍の兵隊がジープでやってきて、制帽を被った保健所の役人と一緒に各家を回る。私は逃げ回って押入れに逃げ込んだが、つかまって思いっきり頭から白い粉をかけられた。
父の仕事は良く知らないが、母の話によれば戦後は浅草で屋台の商売をしていたそうだ。秋刀魚を焼いて売っていたそうだ。このときに母の妹を連れていたとのことで、その妹さんはまだ東京で暮らしている。妹さんの話では屋台の商売はぼろもうけで、毎日ブリキの箱にお金がうなるほど売れたそうだ。1950年2月に妹が生まれたが。それは亀有を引越し、東京深川でのことであった。父は平成8年1月に他界した。
大谷田の夏祭り、お神輿の前で。 大谷田の夏祭り、羽織姿の祖父と地元の人たち。
昭和12年、大谷田町(現大谷田1丁目、中川5丁目)に、日立製作所亀有工場が建設され、戦車等を製造生産していた。この道路は工場から搬出される戦車が国道4号まで通った道である。当時東渕江一帯でコンクリート舗装の道はここだけであった。人呼んで戦車道といっていた。
ここで桜並木が切れ環七通りへ出て渡り大谷田公園に入る。
(足立史談 第291号 1992年5月号より抜粋)
三式中戦車
以下、出典は http://www.geocities.jp/pccwm336/sub2.html 大谷田の項
【大谷田】(おおやた)1〜5丁目 最終昭和51年10月1日
大谷田村。元和二年(1616)十月十日の伊奈半十郎の書状の文中に「淵江之内大谷田新田開
之事」とあり河合左内らによって開発された。『正保改定図』には大谷田村とある。明治22年
の「市制町村制」により東淵江村の大字となり、昭和7年足立区の成立で大谷田町となって戦後
に至る。同35年西南の一部が大谷田新町1〜2丁目として独立したので、残余の大谷田町は1
〜3丁目となった。同42年7月1日大谷田町と佐野町の各一部をあわせた町域を現行の「大谷
田1〜2丁目」とし、同48年11月1日大谷田新町2丁目の全部と大谷田町・大谷田新町1丁
目・長門町・上谷町中の各一部をあわせた町域を現行の「3〜4丁目」とし、同51年大谷田町
と佐野町の各一部を2丁目に編入し、大谷田町・佐野町・辰沼町の各一部をあわせた町域を現行
の「5丁目」として大谷田の新住居表示は完了した。
1丁目に大谷田1丁目団地(日立製作所戦車工場跡地)、中川東小学校、第十二中学校、足立
東高等学校、3丁目に福寿院、中川小学校、大谷田公園、5丁目に足立区郷土博物館がある。車
大丈夫だよ。
大谷田の由来
地名の由来は判っていない。元々海にできた土地だから山坂はなく、したがって谷もできる訳
はなく不思議な地名である。水捌けのよくない土地だったらしく、それを表そうとしたための命
名(たとえば大きな湿地帯)ではないかと考えられている。綾瀬川と中川の間は低地帯でかつて
は利根川や隅田川が大谷田の中で低地といえば中川と葛西用水の間の大谷田コミュニティ道路か
なぁ。むかし葛西用水に沿って堀川が走っていた。
常善院 1丁目33番にある真言宗の寺。典勇山と号す。『新編武蔵風土記稿』には元和のころ
(1615〜23)の創建だろうといい、この辺りは鷹狩りの行われたところで、将軍の御膳所
となっていたとも記している。隣接の亀有村や千住宿に鳥見役がおり、中川・綾瀬川・隅田川の
沿岸は、都鳥だけではなく、野鳥の群生地だった。 境内に宝永五年(1708)の珍しい「六
地蔵」がある。瓦葺の覆堂に守られた石造群の中央にある六面幢のもの。六角型の石のそれぞれ
の面に法印・陀羅尼・法性・地持・勝軍・宝性の6体の地蔵を表わしている。ほかに寺宝として
弘化二年(1845)に奉納された「大涅槃画像」もあるぞ。 この寺にも大般若経600巻が
あり、昭和36年までこの経本を箱に入れ4地区を練り歩いた。いわゆる大般若祭りという古来
からの行事だった。この経本は天明五年(1785)から4年がかりで近郷近在の信徒が寄進し
た鉄眼版だ。
郷土資料館
5丁目20番にある。講堂なんかも持っている結構大きな建物だ。展示室は3つあって、その
内第二展示室は企画展・特別展用とのことで、常設展示は第一・第三展示室とホール2階部分を
ぐるりと廻っている廊下の4辺が第1〜4ギャラリーとなっていてショーケースによる農機具や
信仰関係の展示がされている。区立の博物館としての規模は普通か。館の背後には庭園もあり、
ゆっくり出来るスペースとなっています。第一展示室は地質時代から現代に至るまでの足立地域
の歴史。第三展示室は部屋全体が2つの家の内部を復元した形になっている。この部屋に入ると
センサーが感知して、案内のアナウンスが中を順次解説してくれる。農家の台所、農家にあった
漉返紙(再生紙)を作る紙漉場、紙問屋の帳場と続きます。
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