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私のふるさと

小学校時代 (1950年〜1956年)

深川・向島時代

1、深川編

深川小学校校章

 現在の深川小学校周辺地図

 

  

深川神明宮例大祭、宮神輿巡幸、町神輿連合渡御(写真は森下一丁目交差点での森一神輿)

掛け声は「わっしょい!」、見どころは「水かけ」・・消防の水栓から勢いよく水が出て、頭から水がかけられる。

連合渡御が終わると、町内ごとに分かれて練り歩く。

 お祭りだい!  町の辻には休憩所が設けられ、子どもたちにお菓子が振るまわれました。

★お風呂のタダ券を貰って喜んで行きました。

★深川森下公園では盆踊り大会が開かれ、夜遅くまで東京音頭が太鼓の音に合わせて踊られた。

★台風が来て床上浸水をした。畳を上げて押入れに敷き、その押入れに寝ました。上から下を見ると水面がぷかぷかしていました。

★ジャイアンツ 帽子  子どものころのキャップに似ているが、つばが狭く GY のマークはフェルト製だった。

★銭湯の下駄箱で、川上、長嶋の背番号と同じ番号札を取ることがステータスシンボルだった。

 

2、向島編

1954年(昭和29年) 墨田区立 言問小学校 に転入学

1956年(昭和31年) 言問小学校卒業 墨田区立 墨田中学校 入学

墨田区(旧・本所区)の押上から業平橋あたりは、今や 東京スカイツリー の話題でもちきりです。地元商店街では、押上と業平橋の地名をとって「おしなりくん」というゆるキャラが人気なんだそうです。

 押上は、昭和30年代前半までは京成電鉄の終点であり、都電との乗り換え客でそれなりに賑わいました。しかし、都電が廃止されて、京成電鉄と都営地下鉄が直通運転をはじめると、単なる途中駅に成り下がってしまい、つい最近まで、下町の地盤沈下を象徴するような町になってしまいました。
 それが、ここ1、2年でたいへんな変わりようです。1駅ほど離れたところに実家があった私にとっては、何よりも「押上」という地名を正しく読んでもらえるようになっただけでもうれしい。ちなみに「おしあげ」と読みます。

 業平橋は、『伊勢物語』のなかで、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と読んだ在原業平にちなんだ名前である。もっとも、言問橋は隅田川に架かっているが、業平橋は江戸時代につくられた運河である大横川に架かっている橋である。ただ、大横川の業平橋付近は親水公園になってしまったので、業平橋の下には川が流れていない。
 そして、東武鉄道業平橋駅の北側、押上二丁目(旧・中之郷町)には日本でその旧さで一、二を競う鉄筋コンクリート製の共同住宅、同潤会中之郷アパートがあったが、現在は取り壊されて新しいビルが建てられています。

昭和の記録  押上〜業平橋

 小学校5年の時に向島に引っ越し、言問小学校に転入しましたが友達もいないので、あちらこちらを遠出をして遊んでいました。そのような遊び場の一つに東武鉄道の引き込み線があり、セメント原料である石灰石を拾うことが楽しみでした。石灰石は水をかけると発熱して変色することに驚きました。 たしかその時の記憶では、大きな灰色の工場があったことを覚えています。それが磐城セメント工場でした。私は昭和24年当時はまだ足立区大谷田にいたから、創業のことはまったく知りませんでした。

終戦から4年。業平橋駅構内に、「磐城セメント」が国内最初の生コン工場を造りました。栃木県佐野市から東武鉄道が運んだ石灰石などを原料にした生コンクリートは、鉄道、道路、ビル建設に大きく貢献しました。特に、地下鉄丸ノ内線の建設工事ではフル回転でした。

 数年後に並んでできた「日立コンクリート」の工場とともに、戦後の復興を支えました。

 昭和が終わり、2006年3月。東武鉄道による東京スカイツリータワーの建設が決まりました。磐城セメントの工場は、「東京エスオーシー業平橋工場」と名を変えていましたが、07年秋に閉鎖し、姿を消しました。「一つの時代が終わった」と岡野光取締役(59)は言いました。日立コンクリートも解体されました。再開発される駅前の店舗は続々と閉店し、東武鉄道本社も来年秋には移転します。

ツリー完成後、この場所には“生コン工場発祥の地”の石碑が建つ予定です。

磐城セメント工場 日本初の生コン工場

 大正12年の関東大震災直後に、復興局道路課によってミキシングプラントが設置され、下谷、浅草方面の道路工事にダンプカーで輸送された記録が残っています。これが日本の生コンクリート工場の先駆けと云われていますが、コンクリートの販売ではなく現場プラントに近いものでした。

 産業としての発祥は、磐城セメント㈱(現、住友大阪セメント)が全額出資で設立した、東京コンクリート工業㈱が東京都墨田区押上町7番地の東武鉄道業平橋駅構内に昭和24年11月、業平橋工場を建設したことに始ります。小野田セメント製造の元社長河内通祐(元東京スミセ生コン社長河内三郎の父)から磐城セメント㈱斉藤次郎社長はに生コン会社設立の構想が持ち込まれたのは昭和23年7月頃である。社長就任間もない斉藤社長は、生コンの将来性を期待してこれに応じ、昭和23年12月、資本金300万円の東京コンクリート工業㈱が設立され、河内通祐が社長に就任、工場建設に着手することになった。

 翌24年11月に日本初の生コン工場・業平橋工場が完成した。同年12月に全額出資の磐城コンクリート工業㈱を設立し、東京コンクリート工業、磐城商事など五社を合併、セメントの製造部門もここに移されました。

 創業当時は、輸送・製造面で苦労が有ったようですが試行錯誤の末、輸送方法も確立し、安定した品質の生コンが供給され普及し始めました。昭和31年にはセメント各社が6大都市に工場を増強し、36年には全国で137工場を数えるまでになりました。

昭和24年操業当時の業平橋工場

 生コンの最初の出荷は地下鉄銀座線・三越前の出入口の補修工事だったといわれている。

昭和25年ダンプ式運搬車が勢揃いした工場

 ダンプ式運搬車に改良されたが、荷卸時は生コンが分離し加水再練して打設するなど大変な苦労であった。

 

以下、詳しくは次のページを見てください。⇒  −生コン製造設備−

日立セメント 業平橋 ここが東京スカイツリータワーで注目されている所です。このあたりに東武の貨物機関車が出入りしていた時もあったのです。あまり注目もされずに無くなったと思います。押上に専用線関係の知人がいたので、何度かお邪魔した思い出がありますが、ここで写真はあまり撮っていなかったのが悔やまれます。今の押上は各方面に連絡するジャンクションですが、地上への出方がさっぱりわかりくくなりました。エアタンクに文字が。つかみ棒には地下足袋が。
押上 撮影 1984.8.5 岩堀春夫

押上〜業平橋(同潤会アパート)がすぐ近くにあった。 この貨物機関車が引く引き込み線の様子も見ることができた。

 

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