このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
〜 鎌倉夢語り 〜
〜 登場人物について 〜
「大姫」(おおひめ)について
父親は、鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝です。
母親は、源頼朝の正室の北条政子です。
大姫は、この二人の長女です。
大姫の実名は確認が取れていません。
実名が伝わっていない可能性が高そうです。
「大姫」という呼び名は、長女の姫を差います。
源頼朝の長女は「大姫」と呼ばれています。
色々な作品の中に「大姫」として登場しています。
生まれた年もはっきりとしていないようです。
治承二年(1178年)頃の生まれという説があります。
寿永二年(1183年)の大姫が六歳の時に、人質として鎌倉に送られてきた源義仲(木曾義仲)の嫡男の源義高(木曾義高)と婚約します。
しかし、翌年の寿永三年(1184年)の一月に源義仲(木曾義仲)が、源頼朝からの命令によって源義経らに討たれてしまいます。
そして、源義高(木曾義高)も、鎌倉に着た約一年後の寿永三年(1184年)に源頼朝の命によって殺害されます。
大姫はその事が原因で病弱になったと伝えられています。
後に、一条高能との縁談が持ち上がります。
しかし、一条高能との縁談を大姫が嫌がった事が原因らしく破談となります。
更に後の事になりますが、大姫に入内の話しが持ち上がります。
しかし、その話しの途中に大姫は亡くなります。
大姫は、源義高(木曾義高)の死後は、源義高(木曾義高)の事を考えながら、建久八年七月十四日(1197年8月28日)に二十歳ほどの若さで亡くなります。
弟妹には、確認の取れる範囲となりますが、順番に、大姫、弟の源頼家(万寿)、妹の三幡、弟の源実朝(千幡)となります。
皆、母親は北条政子です。
「源義高(木曾義高)」(みなもとのよしたか)(きそよしたか)について
父親は、源頼朝の従兄弟の源義仲(木曾義仲)です。
源義高(木曾義高)は、嫡男となります。
母親は、中原兼遠の娘といわれています。
中原兼遠は、源義仲(木曾義仲)の乳母夫といわれています。
母親が巴御前とする説もあります。
承安三年(1173年)頃の生まれといわれています。
源義高(木曾義高)の名前は、「義高」、「義基」、「義隆」など幾つかの説があります。
「鎌倉夢語り」の物語では、「義高」を使用します。
源義高(木曾義高)は、「清水冠者義高」と呼ばれています。
この名前も「清水」と「志水」と二つの字が伝わっています。
寿永二年(1183年)の三月頃の十一歳の時に、鎌倉へ人質として送られます。
翌年の寿永三年(1184年)の一月に父親の源義仲(木曾義仲)が源義経らに追われて討ち死にします。
源義高(木曾義高)は、同年の三月の終わり頃から四月頃の間に御所の女房らの手によって鎌倉を脱出します。
そこには、北条政子が関係していたという説があります。
しかし、故郷へ向かう途中に源頼朝の追っ手によって討ち取られます。
元暦元年四月二十六日(1184年6月6日)の事だそうです。
「海野小太郎幸氏」(うんのこたろうゆきうじ)について
源義高(木曾義高)の従者です。
源義高(木曾義高)と供に木曾から来たようです。
年齢は、源義高(木曾義高)と同じ歳、または、一つ年上と伝えられています。
源義高(木曾義高)が鎌倉を脱出する時に、身代わりとして鎌倉に残ったとされています。
源義高(木曾義高)の死後は、源頼朝に仕えています。
「河越重頼女」(かわごえしげよりのむすめ)について
源義経の正妻です。
父親は、河越重頼です。
母親は、源頼朝の乳母の娘です。
生まれた年や名前は伝わっていないようです。
伝承の中の名前が幾つかあり、「郷御前(さとごぜん)」、京に嫁いだ事が関係した「京姫」などあります。
武蔵野国河越庄(埼玉県川越市)の生まれと思われます。
源頼朝の乳母比企尼の一族の女性です。
源頼朝の伊豆での時代を支えたという事で、伊豆の河越重頼をはじめとする比企尼につながる一族達は、厚い信頼を受けていたようです。
源義経の都での噂を聞いた源頼朝が、源義経の正妻として、自分の信頼のおける乳母の家族の娘を思い立ったようです。
元暦元年(1184年)九月に、河越重頼女は源義経の正妻として上洛します。
この時には、既に、鎌倉の源頼朝と都の源義経の間には軋轢が生じていたようです。
そのため、源義経の近臣達は、河越重頼女との縁組を快く思っていなかったようです。
文治元年(1185年)十一月に、父親の河越重頼が源義経の縁者という事で誅されて領地を没収されても、兄が出仕停止になっても、河越重頼女は戻ってこなかったそうです。
源義経は奥州の平泉に逃げます。
河越重頼女は、武蔵野国に戻る事なく奥州にいる源義経を追い掛けて行ったようです。
平泉で源義経との間に一女を儲けたといわれています。
しかし、源義経と子供と供に自害したと伝えられています。
源義経には何人かの子供がいます。
確認できる範囲となりますが、母は不明ですが女の子、静御前が産んだ男の子(生まれて直ぐに鎌倉側に殺害されています)、河越重頼女が産んだ女の子、という三人の子供がいたようです。
河越重頼女の年齢ですが、源義経と供に奥州で最期を迎えた女性と同一人物とすると、その女性の年齢から推測して、17歳前後と思われます。
「鎌倉夢語り」では、河越重頼女が物語に登場するにあたり、名前を付ける事にしました。
「一文字、または、二文字」、「当時あってもおかしくない名前、または、言葉」、「季節感を感じさせない」、「当時有名な人と名前が重ならない、かつ、本当にありそうな名前(誤解を生じないようにするため)」などの条件から名前を付けました。
以上の事を考えて、「真澄(ますみ)」という名前にしました。
「真澄(正しくは、“真澄み”)」の意味は、「とても良く澄んでいること」だそうです。
「一条高能」(いちじょうたかよし)について
源頼朝の妹婿の子です。
父親の一条能保が源頼朝の妹の婿になります。
大姫とは従兄弟になります。
母親の名前の確認は取れませんでした。
建久五年(1194年)に大姫の婿になるという事で鎌倉に来ています。
八月十四日に鎌倉へ挨拶に来ているようです。
大姫がこの縁談を嫌がったという話しを聞いて、謝ったとも伝えられています。
建久七年(1196年)十一月二十五日に参議に就任します。
建久九年(1198年)九月に亡くなったそうです。
「三幡」(さんまん)について
文治二年(1186年)〜正治元年六月三十日(1199年7月24日)
父親は源頼朝、母親は北条政子です。
二人の間の次女です。
大姫の妹となります。
「乙姫」とも呼ばれています。
乙姫という呼び名は、二番目の姫を差すそうです。
当初は大姫の入内として画策していましたが、大姫の死によって、三幡に入内の話しが持ち上がります。
そんななか、亡くなります。
病名ははっきりとしていないそうです。
「源頼家」(みなもとのよりいえ)について
寿永元年八月十二日(1182年9月11日)の生まれです。
父親は鎌倉幕府初代将軍の源頼朝、母親は正室の北条政子です。
幼名は「万寿(まんじゅ)」といいます。
建久十年(1199年)一月十三日に父親の源頼朝が亡くなります。
建久十年(1199年)一月二十六日に家督を相続して鎌倉殿・鎌倉幕府の第二代征夷大将軍となります。
自分の乳母の家の比企の家から妻を娶ります。
この女性との間に、男の子(一幡[いちまん])が生まれます。
しかし、建仁三年(1203年)九月二日に「比企の乱」が起こります。
この事件が原因で、源頼家は、九月二十二日に修禅寺に幽閉されます。
元久元年七月十八日(1204年8月14日)に、修禅寺で殺害されて亡くなります。
源頼家の子供には、母親は違いますが何人かの子供がいます。
有名なのは、「公暁(くぎょう)(幼名:善哉)」です。
後は、「竹御所(たけのごしょ)(鎌倉幕府の第四代征夷大将軍の正室)(名前:鞠子、または、[“女”偏に“美”子]よしこ)」も小説などに登場するので有名だと思います。
他には、男の子二人、女の子一人がいます。
「源実朝」(みなとものさねとも)について
「源實朝(みなもとのさねとも)」と書く事もありますが、「鎌倉夢語り」関連では「源実朝」で書いています。
建久三年八月九日(1192年9月17日)の生まれです。
生まれた時間は、巳の刻(午前十時頃、または、午前十時の前後二時間、または、午前十時から正午までの二時間)と伝えられているそうです。
父親は鎌倉幕府初代将軍の源頼朝、母親は正室の北条政子です。
乳母は「阿波局(あわのつぼね)(北条政子の妹)」です。
幼名は「千幡(せんまん)」です。
建久十年(1199年)一月十三日に父親の源頼朝が亡くなり、兄である源頼家が追放された状態になったため、建仁三年九月(1203年)に鎌倉殿・鎌倉幕府の第三代征夷大将軍となります。
正室は公家出身の「坊門信清の娘」です。
実子は確認できませんが、「善哉(源頼家の子・公暁)」と「竹御所(たけのごしょ)(源頼家の子)」という猶子がいます。
武士として初めて右大臣となります。
鎌倉幕府の第三代征夷大将軍の就任中の建保七年一月二十七日(1219年2月13日)の夜に、猶子である「公暁」に襲われて亡くなります。
歌人として知られていて、歌集は「金槐和歌集」が知られています。 小倉百人一首にも選ばれています。
「熊谷次郎直実」(くまがいじろうなおざね)について
「熊谷直実(くまがいなおざね)」という名前でも知られています。
法名は「法力房 蓮生(ほうりきぼう れんせい)」です。
元治元年二月十五日(1141年3月24日)〜承元二年十月二十五日(1207年12月4日)
熊谷直貞の次男として生まれました。
幼名は「弓矢丸」というそうです。
幼い時に父親の熊谷直貞が亡くなったので、母方の叔父の久下直光(くげなおみつ)の元で育ったそうです。
保元の乱では源義朝の指揮下に、平治の乱では源義平の指揮下にいましたが、平治の乱の後は、平知盛に仕えたそうです。
源頼朝の挙兵の前は平家側に属していました。
治承四年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していましたが、石橋山の戦い以降は、源頼朝に仕えるようになりました。
治承八年(1184年)の一ノ谷の戦いでは、源義経に従っていたそうです。
この戦いの中で、平敦盛と一騎打ちをします。
熊谷次郎直実は平敦盛に勝ち討ち取ろうとしますが、少年という年齢や優しい性格をしているという理由などから逃がそうとします。
しかし、逃がす事が出来ずに、熊谷次郎直実は平敦盛を泣く泣く討ち取ります。
文治三年(1187年)八月四日に、鶴岡八幡宮の放生会で、流鏑馬の的立て役を命じられましたが拒否したため、所領の一部を没収されたそうです。
建久三年(1192年)十一月に、久下直光と境界線問題で、源頼朝前で口頭弁論をする事になったそうです。
質問責めにあった熊谷次郎直実は激怒したと伝えられています。
熊谷次郎直実は出家をしています。
出家をした理由は、平敦盛を討ち取ったため、境界線問題での口頭弁論での出来事のため、手柄を立てる事や人を騙す事に耐えられなくなった、などといわれています。
出家をした時期については幾つか説があるようです。
境界線問題の口頭弁論後で、息子の熊谷直家(くまがいなおいえ)に家督を譲った後に、出家をした可能性が高いようです。
建久六年(1195年)八月十日に、京から故郷に戻る途中に鎌倉に立ち寄ったそうです。
鎌倉では源頼朝と対面したそうです。
熊谷次郎直実は、勇ましい性格、口下手な性格などと伝えられているそうです。
大姫と源義高編目次
大姫と源義高番外編目次
大姫編目次
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |