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〜 登場人物について 〜
〜 戦国恋語り 信玄の娘 松姫 編 〜
「松姫」(まつひめ)
永禄四年(1561年)〜元和二年(1616年)の人です。
「松姫(まつひめ)」、「お松」という名前で知られています。
織田信長の嫡男である「奇妙丸(きみょうまる)[後の 織田信忠(おだのぶただ)]」の許婚者です。
「奇妙丸」との婚約の後は、「新館御寮人(にいだちごりょうにん)」と呼ばれます。
後に仏門に入りますが、「信松尼(しんしょうに)と名乗ります。
武田信玄の「五女」か「六女」といわれています。
この物語では「五女」とします。
母親は武田信玄の側室の「油川夫人(油川刑部守信の娘)」です。
同腹の兄弟には、「仁科五郎盛信(武田信玄の五男)」、「菊姫(武田信玄の四女、上杉景勝の正室)」がいます。
「松姫」と「奇妙丸」は、永禄十年(1567年)の十一月の頃に婚約をします。
「松姫」が七歳前後、「奇妙丸」が十一歳前後となります。
しかし、この縁談は、元亀三年(1572年)武田家と織田家の関係に変化が生じたために、破談になりました。
一説には、正式に破談という申し出はない状態のまま、自然消滅的な形だったとも言われています。
「信松尼」と名乗ってから出来事になりますが、徳川家のある出来事に関係します。
徳川秀忠と正室以外との女性(お静、または、お志津)との間に子供が生まれます。
その子供は、「信松尼」を通じて、「信松尼」の「姉(母は違います)」の「見性院」預けられます。
その子供は、後の「保科正之」です。
「保科正之」は後に「会津藩」を任せられます。
「松姫」は元和二年(1616年)四月十六日に亡くなります。
「松姫」は、「織田信忠」と婚約をした以外には、祝言を挙げる事も婚約する事も無く、生涯独身で終わったそうです。
「信松尼」の「信」は、「武田信玄」の「信」とも、「織田信忠」の「信」とも言われています。
「菊姫」(きくひめ)」
元禄元年(1558年)〜慶長九年(1604年)の人です。
武田信玄の四女となります。
母親は、松姫・仁科五郎盛信と同じく「油川夫人(油川刑部守信の娘)」です。
松姫の同腹の姉です。
天正七年(1579年)に上杉景勝の正室として嫁ぎます。
法名は「大儀院」です。
「仁科五郎盛信」(にしなごろうもりのぶ)
弘治三年(1557年)〜天正十年(1582年)の人です。
母親は、「菊姫」や「松姫」と同じく「油川夫人(油川刑部守信の娘)」です。
武田信玄の五男といわれています。
「松姫」と「菊姫」の同腹の兄です。
幼名は「五郎」と言うそうです。
元服時は「武田五郎晴清」と名乗っていたようです。
永禄四年(1561年)五月に、武田信玄が安曇に在る森城主の「仁科盛政」を攻略して自害に追い込んだそうです。
「仁科家」を存続させるために、「晴清」に「仁科家」を継がせる事になりました。
安曇に在る森城主の「仁科家」は、代々「盛」の字を名前に使っていたそうです。
そのために「盛信」と改名させたそうです。
幼くはありましたが森城主になりました。
天正十年(1581年)に「高遠城主」になります。
天正十年(1582年)に「織田信忠」が率いる織田軍との戦が始まります。
天正十年(1582年)三月二日に、織田軍との戦いの中で自害という形で亡くなります。
「油川夫人」(あぶらかわふじん)
享禄元年(1528年)、または、天文五年(1536年)〜元亀二年(1571年)の人です。
「油川信惠(あぶらかわのぶよし)(※ 武田信虎[たけだのぶとら][武田信玄の父親]の叔父)」の孫娘です。
「油川信惠」は、「武田信虎」と戦い、永正五年(1508年)十月に負死したそうです。
父親の名前ですが、「油川守信(あぶらかわもりのぶ)」と「油川信友(あぶらかわのぶとも)」の二つの名前があります。
改名した可能性もあるのですが、はっきりと分かりません。
「武田信玄」の側室です。
「仁科五郎盛信」、「葛山信貞」、「菊姫」、「松姫」の生母です。
一説には、「武田信玄」が、一番愛した女性、唯一愛した女性、唯一心を許した女性、などと言われています。
名前は不明です。
甲州一の美女と謳われるほど綺麗な方だったそうです。
亡くなった年から推測すると、「松姫」の婚約破談、「菊姫」が上杉影勝へ嫁ぐ事、武田家と織田家の戦い、この様な後に起こる事を知らずに亡くなった事になります。
「黄梅院」
天文十二年(1543年)〜永禄十二年(1569年)六月十七日の人です。
母親は武田信玄の正室の「三条夫人(さんじょうふじん)」です。
名前は不明です。
武田信玄の長女といわれています。
法名は「黄梅院殿春林宗芳大禅定門」です。
名前が不明のため、法名の「黄梅院」と呼ばれています。
小説、マンガ、ドラマなどでは、いろいろな名前で登場しています。
「戦国恋語り」では、「初瑠(はる)」・「初瑠姫(はるひめ)」という名前で登場しています。
三国同盟の関係から、天文二十二年(1554年)十二月に、「黄梅院」は「北条氏政(ほうじょううじまさ)」に嫁ぎます。
「黄梅院」は十二歳で、「北条氏政」は十五歳だったそうです。
二人の夫婦仲は良かったそうです。
二人の間には確認できる範囲となりますが、男の子(名前不明、夭折)、女の子(名前未確認)、「北条氏直」、「北条氏房」、「北条氏重」、「北条氏定」が生まれています。
永禄十一年(1568年)十二月に、武田信玄の駿河侵攻が始まり、三国同盟が破綻してしまいます。
この一連の経緯のために、「北条氏康(ほうじょううじやす)」は激怒したと伝えられています。
そのため、翌年の永禄十二年(1569)年一月に、「黄梅院」は甲斐の国に戻ってきています。
甲斐の国に戻った「黄梅院」は、心労や過労から体調の悪い日が多くなったと伝えられています。
甲斐の国に戻ってから出家したとも伝えられています。
「黄梅院」がなくなってから後の事になりますが、武田家と北条家は再び同盟を結びます。
元亀二年(1571年)十二月に、「北条氏政」は早雲寺に黄梅院を建立し、「黄梅院」の分骨を埋葬して手厚く葬ったと伝えられています。
「黄梅院」に「初瑠」と名付けた理由を書きます。
武田信玄の娘の名前で知られているのは、「真理」、「菊」、「松」です。
一人だけ突出した名前にならないようにしたいと考えました。
最初に良いと思った名前は、長女という事から「初(はつ)」でした。
しかし、他の武将に「初」と言う名前の姫がいるので、後々の物語などで分かり難くなる可能性があるので止めました。
しかし、「初」という名前は残したいと考えました。
次に「初津」という名前を考えましたが、甲斐の国で「津」という字がしっくりきませんでした。
名前を考えている最中に、甲府市と宝石に関連がある事を思い出しました。
甲府市は古くから水晶などの加工や研磨で有名な産地として知られています。
そこで、宝石の「瑠璃(るり)」[※ラピスラズリ(lpis lazuli)の和名]の「瑠」の字を使う事にしました。
「織田信忠」(おだのぶただ)
弘治三年(1557年)〜天正十年(1582年)の人です。
幼名は「奇妙丸(きみょうまる)」です。
「織田信長(おだのぶなが)」の嫡男になります。
母親は「生駒吉乃(いこまきつの)」と言われています。
永禄十年(1567年)の十一月頃に、武田信玄の娘の「松姫」と婚約します。
「松姫」が七歳前後、「奇妙丸」が十一歳前後になります。
しかし、元亀三年(1572年)に織田家と武田家の関係に変化が生じたために、破談になります。(一説には破談の申し出は無く、自然消滅という説があります。)
元服は元亀二年(1572年)正月になるそうです。
元服時は「織田勘九郎重信」と名乗ったそうです。
「信忠」と名乗るのは後の事になります。
天正十年(1582年)六月二日に、父親である織田信長と共に「本能寺の変」で亡くなります。
現在の暦にすると六月下旬の事になります。
織田信長には側室はいましたが、正室はいなかったと思われます。
側室との間には子供が生まれています。
子供の中の一人に、「三法師(さんぽうし)[後の 織田秀信]」がいます。
「三条夫人」(さんじょうふじん)
大永元年(1521年)頃〜元亀元年七月二十八日(1570年8月29日)の人です。
本名は分かりません。
京都の三条邸で生またそうです。
三条家は名門の家系です。
父親は、左大臣の三条公頼です。
姉は、細川晴元の正室です。
妹は、本願寺の顕如上人の裏方[※本願寺門主の夫人の称]の如春尼です。
「三条の方(さんじょうのかた)」、「三条夫人(さんじょうふじん)」と呼ばれています。
武田信玄の「継室(けいしつ)」[※後妻]です。
「継室」は基本的には身分の高い人がなります。
三条夫人は武田信玄の「正室」と表現する事もあります。
「戦国恋語り」では「正室」と表現します。
武田信玄との婚姻は、天文五年(1536年)七月だそうです。
武田義信、黄梅院、見性院を含めた三男二女の母です。
墓所は甲府市に在るそうです。
雪月花(戦国恋語り 信玄の娘 松姫編)目次
小説目次
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