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福島県 2009年6月 NO.2


後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2009.6.9撮影。

撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。


〜 会津若松市 〜


〜 御薬園 〜


会津藩二代藩主 保科正義が、園内に設け、各種の薬草栽培を試みたそうです。
三代藩主 松平 正容の時から次第に整備拡充されたそうです。
会津戦争中に西軍負傷者の保養所として利用されたそうです。
そのため、焼失などする事なく残ったといわれています。

薬草を撮影した関係で、効能を含めた説明などを書きました。
成分・効能・使用などの詳細は、各自でご確認をお願いします。




「赤詰草(あかつめくさ)」
マメ科。
別名は、「紫詰草(むらさきつめくさ)」、「レッドクローバー」
ヨーロッパ原産。
帰化植物。
日本に渡来したのは、江戸時代のよう。
ハーブとして利用する事がある。
ハーブとして利用する部分は、花穂。
用途は、去痰、だそう。
ハーブとして利用しているが、アクツメクサの成分の関係で、女性ホルモンが関係する症状の方が服用する時は、医師の診断が必要と説明する方がいる。









「梅花空木(ばいかうつぎ)」
ユキノシタ科。
空木の仲間で、梅の花に似ている、ところから付いた名前だそう。
ちなみに、「空木(うつぎ)」は「ユキノシタ科ウツギ属」で、「梅花空木」は「ユキノシタ科バイカウツギ属」なので、一応は空木の仲間。
別名は「薩摩空木(さつまうつぎ)」









「ジギタリス」
ゴマノハグサ科。
別名は、「狐の手袋(きつねのてぶくろ)」、「フォックス グローブ(Fox Glove)」
ヨーロッパ原産。
観賞用だけでなく、薬としても利用している。
有毒植物。
効能・利用方法などの詳細は、各自でご確認をお願いします。













「毒痛み(どくだみ)」
ドクダミ科。
「毒痛み」、「毒痛」、「毒溜」、「毒矯」と幾つかの書き方があります。
花は中央部分。
花びらのように見えるのは、総苞片。
漢方などでの別名は、「十薬(じゅうやく)」、「重薬(じゅうやく)」
用途は、整腸、利尿、消炎、など。
用部は、地上部分で、葉、茎、花穂、など。
葉などを煎じて飲む、薬用風呂、などに利用。












「八重毒痛み(やえどくだみ)」
ドクダミ科。
「どくだみ」の字は、「毒痛み」、「毒痛」、「毒溜」、「毒矯」と幾つかの書き方がある。
花は中央部分。
花びらのように見えるのは、総苞片。
総苞片が八重の毒痛み。
効能・漢方名は、一重の毒痛みと同じよう。









園内。
















「狐の牡丹(きつねぼたん)」
キンポウゲ科。
有毒植物。
効能・利用方法などの詳細は、各自でご確認をお願いします。












「赤輪蒲公英(こうりんたんぽぽ)」
キク科。
花が「蒲公英(たんぽぽ)」に似ているところから付いた名前だそう。
ヨーロッパ原産。
日本には明治時代に渡来したそう。
帰化植物。
道端や荒地などに生育しているそう。
そのため、生育場所によっては、日本の在来種に影響を与える恐れがあるそう。












「ラベンダー」
シソ科。
漢字名にすると「薫衣草(くいんそう)」
写真のラベンダーはつぼみ。
昔から利用されている馴染みのあるハーブの一種類。
観賞用、食用、としても利用している。
ハーブ関係の使用部分は、花。
効能は、鎮静、安眠、殺菌、防虫、など。
アロマオイル、浴湯料、ハーブティー、などたくさんの用途に利用している。











「野薊(のあざみ)」
キク科。
薬としても利用。
生薬名は、「大薊(たいけい)」
用部は、根、のよう。
効能は、利尿、胃健、など。















「ヘンルーダ」
ミカン科。
南ヨーロッパ原産。
別名は「ルー」
漢方や和名は「芸香草(うんこうそう)」
薬用として利用。
昔は様々な用途に利用していたが、毒性があると分かってからは、利用しない用途が増えたよう。
効能、利用などの詳細は、各自でご確認をお願いします。












「芍薬(しゃくやく)」
ボタン科。
中国原産。
漢方などで利用。
用部は、根。
効能は、収れん、緩和、鎮静。















「白花虫除菊(しろばなむしよけぎく)」
キク科。
別名は「除虫菊(じょちゅうぎく)」
用部は、頭花。
用途は、殺虫剤。
花だけを摘み取り乾燥させた物を「除虫菊花(じょちゅうぎくか)」と呼ぶそう。
日本には、明治時代に渡来したそう。
昭和十年代には、日本が世界一の生産量を誇り、海外に輸出をしていたそう。
後に、化学合成殺虫剤の流通によって、生産量は激減したそう。
最近は、残留農薬、化学合成を使用しない物に注目が高まっている関係で、白花虫除菊が見直されているそう。






〜 麟閣 〜


天正十九年(1591年)に、千利休が豊臣秀吉の怒りに触れたために切腹により亡くなりました。
蒲生氏郷が千利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、千利休の子の千小庵を会津にかくまったそうです。
徳川家康と共に、豊臣秀吉に千家復興を願い出たそうです。
その結果、千小庵は京に戻って、千家を再興したそうです。
麟閣は、千小庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷のために造ったと伝わっています。
鶴ヶ城内で大切に使用されていました。
戊辰戦争後に、鶴ヶ城を取り壊す事になりました。
麟閣が失われるのを惜しんだ森川宗久が、明治5年(1872年)に自費で移築したそうです。
平成二年(1990年)に建造当初の場所に移築・復元されました。
福島県指定重要文化財に指定されています。




園内。
















「寄付(よりつき)」
外路地に構えられる建物で、茶会に先立って客が蓮客と待ち合わせたり身支度を整えて、席入りの準備をするための施設だそう。
この寄付は、森川宗久のご子孫の家から移築され復元したそう。









〜 鶴ヶ城(若松城) 〜


国史跡の名称は「若松城跡」。
室町時代〜戦国時代までの名称は「黒川城」。
戦後時代に城主変更や改修などにより「若松城(わかまつじょう)」に変更。
江戸時代の名称は「会津若松城(あいづわかまつじょう)」。
「若松城」の呼び名頃から、通称名は「鶴ヶ城(つるがじょう)」。
以上の「城」の付く呼び名があります。
「鶴ヶ城」・「若松城」の呼び名でご存知の方が多いかと思います。
戊辰戦争の中の会津戦争の時に、会津藩士・家族が籠城して戦った城です。
明治時代に城は取り壊されました。
現在の城は復元ですが、城や敷地の一部は当時のまま残っているそうです。
石垣から天守閣までの高さは、36.5m。
天主台(石垣部分)の高さは、11m。
天守閣の高さは、25.15m。




お堀。
















お堀。
















天守閣(本丸の最上階)から見た「西(白虎)」方面の景色。
西方面には、阿弥陀寺、如来堂、神指城跡、が在る。















天守閣(本丸の最上階)から見た「北(玄武)」方面の景色。
北方面には、磐梯山、飯盛山、旧滝沢本陣、が在る。















天守閣(本丸の最上階)から見た「南(朱雀)」方面の景色。
















天守閣(本丸の最上階)から見た「東(青龍)」方面の景色。
東方面には、天寧寺、が在る。















本丸。
江戸城・大阪城・名古屋城などの高い城を見ていたので、最初に見た時は想像より小さめに感じた。
しかし、江戸城・大阪城・名古屋城の城主の身分や立場から城の大きさを考えると、大きい城になるのは当時では当然の事になる。
鶴ヶ城は当時の城の中では、大きい方になるそう。
鶴ヶ城主の身分や立場が重要だった事が分かる。
鶴ヶ城の規模や大きさの城だったからこそ、一ヶ月もの籠城に耐えられたと思う。







本丸。

















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