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福島県 2009年7月 NO.1


後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2009.7.2撮影。

撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。

※撮影の前日と当日の天候の関係で、地面や植物などが濡れています。


〜 会津若松市 〜


〜 阿弥陀寺 〜


戊辰戦争の中の会津の地で戦った会津藩の戦死者の埋葬は直ぐに許されませんでした。
後に埋葬は許されましたが、阿弥陀寺と長命寺に限られたそうです。
藤田五郎さん(新撰組三番組組長 斉藤一さん)、妻の藤田時尾さん、息子さんの藤田勉さん、などが永久の眠りに就くお墓が在ります。
藤田五郎さんの希望により、阿弥陀寺に埋葬されたそうです。




「紫陽花(あじさい)」
ユキノシタ科。















本堂と「御三階(おさんかい)」を撮影。
右側の大きな建物は、本堂。
左側の小さい建物は、御三階。
「御三階」は、江戸時代の建築。
明治初年まで鶴ヶ城の本丸に在ったが、明治三年(1870年)にこの地に移されたそう。
外観は三階ですが、内部は四層になっている。
二階と三階の間に天上の低い部屋が在る。
三階に上る梯子は、用のない者が上がれないように、上から引き上げる仕組みになっているそう。
戊辰戦争により阿弥陀寺が消失したために、長く本堂として使用されていたそう。
会津若松市の「歴史的景観指定建造物」(指定年度:平成20年度)






〜 神指城本丸跡 (神指城跡) 〜


会津の領主となった上杉景勝が、重臣の直江兼継に命じて築城を始めました。
築城途中に、徳川家康の会津征伐が始まるなどの情勢の変化、関ヶ原の戦いなどによって、築城は中断します。
関ヶ原の戦いの結末・以降の出来事により、城の完成を見る事はありませんでした。
現在は、当時の本丸の土塁と石垣の一部が遺されています。




神指城本丸石垣の南東角付近。




















当時の本丸の土塁の一部が遺されている場所。
上の写真の一部に近付いて撮影。



















本丸石垣に使用された慶山石と裏込め石。














〜 高瀬の大木 (神指城跡) 〜


会津の領主となった上杉景勝が、重臣の直江兼継に命じて築城を始めました。
築城途中に、徳川家康の会津征伐が始まるなどの情勢の変化、関ヶ原の戦いなどによって、築城は中断します。
関ヶ原の戦いの結末・以降の出来事により、城の完成を見る事はありませんでした。
現在は築城途中の一部が遺されています。
「高瀬の大木(たかせのたいぼく)」は「欅(けやき)」です。
昭和十六年一月二十七日(1941年1月27日)指定の国指定天然記念物です。
神指城の二ノ丸の土塁の東北隅の一部の辺りに在ります。
築城前から既に大木だった事が知られているそうです。




「高瀬の大木(たかせのたいぼく)」
「欅(けやき)」
ニレ科。
















〜 如来堂 (神指城跡) 〜


神指城の跡(二ノ丸の付近のようです)の一部に在ります。
庄内へ援軍を求めて会津を離れようとする土方歳三さんの意見、会津藩主の松平容保さんへの恩義から会津に残る意見の山口次郎さん(斉藤一さん[後の”藤田五郎さん”])の意見がありました。
山口次郎さんの意見に同意した約二十名(十数名の説有)は会津に残りました。
山口次郎さんを含めた約二十名は、如来堂に宿陣しました。
会津戦争の中の慶応四年九月四日(1868年10月19日)に、新政府軍が如来堂に宿陣していた新撰組を攻撃しました。
山口次郎さんを含めて全員が討ち死にしたと伝わりました。
実際は、半数近く(半数以上の説あり)は討ち死にしましたが、山口次郎さんを含めた数名は生き残り戦いを続け、会津戦争が終わった時も、山口次郎さんを含めた数名は生き残りました。
如来堂は、新撰組殉難地、神指城跡、として知られています。




「銀杏(いちょう)」
イチョウ科。
2000年の調査で、樹高25m、幹周530cm、だそう。


















如来堂の境内から見た景色。
















「大千成(おおせんなり)」だと思われる。
ナス科。
一年草。
原産地は、ペルー。
別名は「千成酸漿(ほおずき)」
日本には、江戸時代末期に渡来したそう。
実は「酸漿(ほおづき)」のような形をしている。
有毒植物です。
蝿が嫌な臭いがするといわれている。
詳細は各自でご確認をお願いします。





〜 中野竹子奮戦の地 〜


中野竹子さんは、美しく聡明で薙刀の名手として評判だったそうです。
薙刀は道場で指導もしたそうです。
中野竹子さん、母、妹、などを含めた十数名から二十名の女性達は、様々な事情から鶴ヶ城に籠城せず、坂下に向かいました。
会津戦争が始まって直ぐの、慶応四年八月二十五日(1868年10月10日)に、中野竹子さんを含めた婦女子が戦う事が認められ、会津藩の隊と共に戦ったそうです。
柳橋の付近の戦いは激しかったそうです。
中野竹子さんは、「武士の猛き心にくらぶれば 数には入らぬ我が身ながらも」と詠んだ短冊を薙刀に結び付けて戦ったそうです。
中野竹子さんは、慶応四年八月二十五日の柳橋付近での戦いの最中に敵に眉間を撃たれて亡くなりました。
お墓は会津坂下町の法界寺に在るそうです。




「紫陽花(あじさい)」
ユキノシタ科。













〜 大戸町(芦ノ牧温泉駅と周辺) 〜


「芦ノ牧温泉駅」は、会津鉄道の駅の一つです。




「紫陽花(あじさい)」
ユキノシタ科。















「猫(ねこ)」
肉食目ネコ科ネコ属の哺乳類。
名前などの詳細が気になる方は、各自でご確認ください。














芦ノ牧温泉駅の付近から撮影。
















芦ノ牧温泉駅ホームから撮影。
















「立葵(たちあおい)」と思われる。
アオイ科。
日本には平安時代に渡来したそう。
江戸時代には品種が増えて、八重咲きや様々な色が記録された書物があるそう。

















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