このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

福島県 2009年7月 NO.4


後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2009.7.14撮影。

撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。


〜 耶麻郡 〜


〜 猪苗代城跡 〜


「亀ヶ城(かめがじょう)」とも呼ばれています。
鎌倉時代の奥州征伐の軍功で、源頼朝から会津四郡が与えられた佐原義連の長男の経連が、猪苗代を領して猪苗代氏と称し、建久二年(1191年)に猪苗代城を築いたと伝わるそうです。
長く猪苗代氏の居城でしたが、天正十七年(1589年)に起きた「摺上原の戦い」で葦名氏が伊達氏との戦いに敗れ、更に後に、豊臣秀吉の奥州仕置きにより、猪苗代氏の猪苗代城主は終わりを迎えました。
猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸時代の一国一城令にも破却されず、城代が置かれました。
江戸時代には、若松城(鶴ヶ城)の支城になっていたそうです。
慶応四年(1868年)の母成峠の戦いの戦況により、当時の城代は猪苗代城を焼き払い、若松へと撤退しました。
更に後の出来事になりますが、野口英世さんが幼少の頃に通った学校の傍で、子供達の遊び場になっていたそうです。




城の東麓に築かれた「二の丸馬場」の近く。




















本丸付近へ行くための階段。
最初は遺構だと思ったが、階段付近に昭和の時代の失業対策事業の説明があった。
この階段は遺構ではない可能性がある。
この階段は遺構でない可能性があるとしても、石垣などは当事から残る遺構。
「猪苗代城跡」は遺構の残る歴史のある場所。
ご注意ください。













「紫陽花(あじさい)」
ユキノシタ科。
上の写真の階段付近に咲いていた。














本丸の近く。
上の写真の階段を登ると、左右に分かれる階段に来た。
片方の階段を撮影。


















本丸部分。
上の写真の反対側の階段を登った側に見える景色。















本丸部分の高くなっている場所から見た景色。
















本丸部分。
地図や説明などから、鶴ヶ城の支城と考えられていた様子は想像できるが、本丸部分は鶴ヶ城の本丸部分と比べると狭い。













本丸部分から二之郭の方面を撮影。
















左右に分かれる階段の中で、写真に撮影した階段を登ると来る場所。
本丸部分、または、本丸付近。














石垣。





















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