このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

福島県 2009年10月 NO.2


後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2009.10.13撮影。

撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。


〜 喜多方市 〜


〜 蔵について 〜


喜多方市は、蔵とラーメンが有名と話す方が多いです。
戊辰戦争の中の会津戦争が起きた時は、会津から離れていたため、被害が少なく、江戸時代に建てられた蔵が幾つも残ったそうです。
明治時代になると、藩などの規制が減り、裕福な家などが比較的自由に蔵を建てられるようになったそうです。
大正時代も裕福な家などが蔵を建てたそうです。
明治時代や大正時代は、蔵を建てるのは、富の象徴、目標、夢、だったそうです。
しかし、昭和時代の中頃になると、地域の開発・生活環境の変化などから、蔵を壊す・蔵の大改装が始まったそうです。
そのような状況の中で、喜多方市の或る写真家の方が、蔵の姿や蔵の在る風景をたくさん撮影したそうです。
後にその方の写真展が開かれて、多くの方が蔵の写る写真を見たそうです。
更に、テレビで喜多方市の蔵が紹介されたそうです。
喜多方市の蔵が注目されるようになりました。
そして、蔵を維持管理する人達や団体が増えたそうです。


〜 安勝寺 〜


応永二十九年(1422年)の創建です。
明治十三年(1880年)の大火で本堂が消失しました。
後に、蔵造りの本堂が再建されました。
再建後の本堂は、瓦屋根、塗屋造り、窓には土戸、出入り口は三重、という火災に対する考慮をした造りです。
多くに見られる寺院とは違う珍しい寺だと思います。
花頭窓には、当時は珍しかったガラス戸を使用しています。
戊辰戦争時には、新政府軍の病院として使われたそうです。




「本堂」














〜 喜多方 蔵の里 〜


喜多方の蔵の歴史や役割や趣を、歴史のある蔵や屋敷を、永く後世に伝える事を目的とした施設です。
歴史のある蔵や屋敷、様々な事情から壊される予定になった蔵、維持管理が難しくなった蔵や屋敷、などの一部の蔵や屋敷を移築したそうです。
蔵や屋敷の保存をしながら、蔵や屋敷の利用方法の説明、喜多方に関する資料などを展示、しています。




「旧外島家住宅」
「郷頭屋敷」
「喜多方市慶徳町豊岡」に在った。
木造平屋建て 269.85平方メートル。
福島県重要文化財。
平成三年(1991年)三月二十五日に移築復元。
江戸時代初期の嘉永年間から、幕末まで、慶徳組十九ヶ村の郷頭職を務めた最上層の農家。
この住居の、主棟、及び、曲棟、の創建年代は、明和八年(1771年)との記録が残っているそう。
18世紀末頃に、座敷二室を増築したと思われるそう。
会津地方の農家の住宅、特に村役層住宅で、原型がほぼ判明し、18世紀後半という早期の建立が特定できる住宅は珍しく、極めて貴重な遺構になるそう。




「旧手代木住宅 一棟」
木造平屋建て 271.85平方メートル。
寄棟造り。
茅葺き。
福島県指定重要文化財(建造物)。
昭和六十一年(1986年)三月三十一日指定。
旧手代木住宅は、天保年間、小荒井組郷頭手代木家から分家した、この家の初代が、下三宮村の肝煎として赴任した折の建築であると口伝されている。
この建物は、母屋だけを喜多方に移築して創建時の姿に復元されたもの。
この住宅は、当時の肝煎が在郷役人としての勤めを果たすために、急いで建築し、その後に除々に整備して、肝煎の役職に相応しい住宅に改めてきたもの。
改造も少なく保存されてきたので、文化財的価値は高い。
写真では分かり難いですが、異色ある間取りや鍵型に曲げて設けられた座敷など、江戸後期のこの形態の存在や変遷を裏付ける遺構になる。




「旧井上家穀物蔵」
「喜多方市熊蔵町芦平」に在った。
間口3間半×奥行2間の農家の穀物蔵。
墨書に「慶応四戊辰年 小沼村甚五郎作 辰三月建前作之」とあるそう。
「慶応四戊辰年」は、1868年。
風雨にさらされたままになっていたそうだが、構造材はしっかりとしていて、大部分を使う事ができたそう。
片開きの土戸の鍛冶金物は、当時のものをそのまま使用しているそう。
こちらの蔵の屋根の構造は、江戸時代に多く見られたそう。






「旧唐橋家味噌蔵」
「喜多方市松山町松村」に在った。
かつて会鶴酒造の味噌蔵として使われていた間口3間半×奥行8間の大きな蔵。
道路建設のために解体されることになり、譲り受けたそう。
再生にあたっては、柱・貫・梁・桁、及び、小屋組の構造素材をそのまま再利用したそう。
蔵の中では、上で説明している喜多方の蔵を有名にした写真家の方の蔵の写真が展示していた。
こちらの屋根の構造は、明治時代に多く見られた構造。
喜多方では、明治十三年(1880年)の大火により、この屋根の構造の蔵が増えたそう。
上の写真の屋根の形は、通気性に優れているが、防火性は劣る。
この写真の屋根の形は、通気性は劣りますが、防火性は優れている。




「旧猪俣家穀物蔵」
「喜多方市熊倉町熊倉」に在った。
旧米沢街道の宿場町として栄えた熊倉の穀物蔵。
建築年代は、明治時代末期〜大正時代初期と推定されている。
間口2間×奥行4間。
窓は二ヶ所に設けているが、一方は二階のみの窓で正方形に近く、他方は二階共通の縦長で、特徴的な外観になっている。
屋根、窓の配置など均整がとれ、観音開きの扉の意匠も美しく、喜多方の典型的な穀物蔵になる。
屋根の造りは、江戸時代に主流となった形。
この蔵の建築年代のように、明治時代末期以降で、江戸時代主流の屋根の形なのは、蔵に所蔵する物に影響する事があるそう。




「座敷蔵・展示蔵」
新築。
喜多方地方の典型的な商家の構成になっているが、喜多方地方で一般的に見られる、蔵を母屋内に取り込む手法を再現している。












「旧冠木家店蔵」
「喜多方市字一丁目」に在った。
規模は、間口6間×奥行4間。
明治期の比較的早い年代の建築と推定されているが、江戸期の店蔵の形式を留めている。
昭和三十年代に解体され、冠木家が保存していた材料を同家から譲り受けて復元したもの。
柱・梁・小屋組などの主な部材を再利用し、当時の形を出来るだけ忠実に再現している。
明治時代に主流となった屋根の形をしている。







「旧東海林家酒造蔵」
大正十二年(1923年)に建てられた。
かつての銘酒が醸造されていた。
昭和七年(1932年)に或る酒造会社が譲り受け、倉庫として使われてきた。












「水」
「霊峰 飯豊山(いいでさん)」(2105m)等の周囲の山々の水を集めた軟水。















           写真集トップ           


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください