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福島県 2010年1月 NO.5


後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2010.1.26撮影。

撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。

※撮影の前日と当日の天候の関係で、雪が降り、地面や植物などが濡れています。


〜 会津若松市 〜


〜 東山温泉周辺 〜


会津若松市東山町大字湯元に在る、温泉、及び、温泉地、です。
東山温泉の始まりは、1300年前(1990年頃を基にするらしい)と伝わっています。
会津藩松平氏の別荘、会津藩指定の保養所、会津藩指定の湯治場、となっていました。
新撰組副長の”土方歳三”さんが宇都宮の戦いで怪我をして湯治をした温泉としても知られています。
民謡に登場する”小原庄助”さんの縁の場所としても知られています。
”竹久夢二”さん、”与謝野鉄幹”さん、”与謝野晶子”さん、が訪れた温泉地としても知られています。




東山温泉から見える木々。
ふんわりした雪に見える様子が素敵に思い撮影。













〜 麟閣 〜


天正十九年(1591年)に、千利休が豊臣秀吉の怒りに触れたために切腹により亡くなりました。
蒲生氏郷が千利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、千利休の子の千小庵を会津にかくまったそうです。
徳川家康と共に、豊臣秀吉に千家復興を願い出たそうです。
その結果、千小庵は京に戻って、千家を再興したそうです。
麟閣は、千小庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷のために造ったと伝わっています。
鶴ヶ城内で大切に使用されていました。
戊辰戦争後に、鶴ヶ城を取り壊す事になりました。
麟閣が失われるのを惜しんだ森川宗久が、明治5年(1872年)に自費で移築したそうです。
平成二年(1990年)に建造当初の場所に移築・復元されました。
福島県指定重要文化財に指定されています。




「腰掛待合(こしかけまちあい)」
客が露地入りして亭主の迎えを待ったり、中立(なかだち)の際に一旦露地に出て、後の席入りを待つ施設。
この腰掛待合も、森川家から移築、復元したもの。













柵の上に積もった雪。
















「寄付(よりつき)」
外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり身支度を整えて、席入りの準備をするための施設。
この寄付も、森川家から移築、復元したもの。










〜 鶴ヶ城(若松城) 〜


国史跡の名称は「若松城跡」。
室町時代〜戦国時代までの名称は「黒川城」。
戦後時代に城主変更や改修などにより「若松城(わかまつじょう)」に変更。
江戸時代の名称は「会津若松城(あいづわかまつじょう)」。
「若松城」の呼び名頃から、通称名は「鶴ヶ城(つるがじょう)」。
以上の「城」の付く呼び名があります。
「鶴ヶ城」・「若松城」の呼び名でご存知の方が多いかと思います。
戊辰戦争の中の会津戦争の時に、会津藩士・家族が籠城して戦った城です。
明治時代に城は取り壊されました。
現在の城は復元ですが、城や敷地の一部は当時のまま残っているそうです。
石垣から天守閣までの高さは、36.5m。
天主台(石垣部分)の高さは、11m。 天守閣の高さは、25.15m。




天守閣(本丸の最上階)から見た「北(玄武)」方面の景色。
北方面には、磐梯山、飯盛山、旧滝沢本陣、が在る。















天守閣(本丸の最上階)から見た「東(青龍)」方面の景色。
東方面には、天寧寺、が在る。















天守閣(本丸の最上階)から見た「南(朱雀)」方面の景色。
南方面には、大戸岳、が在る。















天守閣(本丸の最上階)から見た「西(白虎)」方面の景色。
西方面には、阿弥陀寺、如来堂、神指城跡、が在る。
















「橋」
撮影場所も釣るが滋養の敷地の一部。
鶴ヶ城が広い敷地だった事が分かる。
鶴ヶ城では籠城の時のために幾つかの橋が壊せるようになっているそう。
この橋は壊せる橋の一つのよう。










「本丸」

















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