このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

福島県 2010年4月 NO.1


後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2010.4.21撮影。

撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。


〜 会津若松市 〜


〜 阿弥陀寺 〜


戊辰戦争の中の会津の地で戦った会津藩の戦死者の埋葬は直ぐに許されませんでした。
後に埋葬は許されましたが、阿弥陀寺と長命寺に限られたそうです。
藤田五郎さん(新撰組三番組組長 斉藤一さん)、妻の藤田時尾さん、息子さんの藤田勉さん、などが永久の眠りに就くお墓が在ります。
藤田五郎さんの希望により、阿弥陀寺に埋葬されたそうです。




「白木蓮(はくもくれん)」と思われる。
モクレン科。













〜 石部桜 〜

「いしべざくら」と読みます。
「江戸彼岸(えどひがん)」です。
バラ科です。
「一箕町」の「石部」に在ります。
樹齢600年と推定される県内でも有数の古木です。
樹高11m、枝張19m、胸高幹周囲0.5m〜2.2m(合計8本)です。
幹は8本に分かれています。
会津五桜(薄墨桜[うすずみざくら]、虎の尾桜[とらのおざくら]、石部桜[いしべざくら]、杉の糸桜[すぎのいとざくら]、大鹿桜[おおしかざくら])の一つです。
会津五桜の中では一番早く開花するそうです。
葦名氏の重臣の石部治部大輔の屋敷跡と伝わっている事から石部桜と呼ばれているそうです。
市指定文化財第二三号(昭和四十三年[1968年]九月十八日指定)。
福島県緑の文化財登録第327号(昭和五十八年[1983年]二月十七日指定)。




開花は4月中旬頃になるが、撮影した年は様々な場所で桜の開花などに影響があり、撮影当日は、咲き始め〜一分咲きだった。
たくさんのつぼみで、濃い桃色のように見える。











〜 神指城跡のサクラ(神指城跡) 〜


会津の領主となった上杉景勝が、重臣の直江兼継に命じて築城を始めました。
築城途中に、徳川家康の会津征伐が始まるなどの情勢の変化、関ヶ原の戦いなどによって、築城は中断します。
関ヶ原の戦いの結末・以降の出来事により、城の完成を見る事はありませんでした。
現在は築城途中の一部が遺されています。
「神指城跡のサクラ」は、会津若松市の「自然景観指定緑地」に指定されました。(指定年度:平成16年度、指定番号:第19号)
16本の「染井吉野(そめいよしの)」が「高瀬の大ケヤキ」を取り囲むように生育しています。




「神指城跡のサクラ」の一本。
「染井吉野(そめいよしの)」
バラ科。
撮影した年は様々な場所で桜の開花などに影響があり、撮影当日は、咲き始め〜一分咲きだった。










〜 高瀬の大木 (神指城跡) 〜


会津の領主となった上杉景勝が、重臣の直江兼継に命じて築城を始めました。
築城途中に、徳川家康の会津征伐が始まるなどの情勢の変化、関ヶ原の戦いなどによって、築城は中断します。
関ヶ原の戦いの結末・以降の出来事により、城の完成を見る事はありませんでした。
現在は築城途中の一部が遺されています。
「高瀬の大木(たかせのたいぼく)」は「欅(けやき)」です。
昭和十六年一月二十七日(1941年1月27日)指定の国指定天然記念物です。
神指城の二ノ丸の土塁の東北隅の一部の辺りに在ります。
築城前から既に大木だった事が知られているそうです。




「高瀬の大木(たかせのたいぼく)」
「欅(けやき)」
ニレ科。












〜 如来堂 (神指城跡) 〜


神指城の跡(二ノ丸の付近のようです)の一部に在ります。
庄内へ援軍を求めて会津を離れようとする土方歳三さんの意見、会津藩主の松平容保さんへの恩義から会津に残る意見の山口次郎さん(斉藤一さん[後の”藤田五郎さん”])の意見がありました。
山口次郎さんの意見に同意した約二十名(十数名の説有)は会津に残りました。
山口次郎さんを含めた約二十名は、如来堂に宿陣しました。
会津戦争の中の慶応四年九月四日(1868年10月19日)に、新政府軍が如来堂に宿陣していた新撰組を攻撃しました。
山口次郎さんを含めて全員が討ち死にしたと伝わりました。
実際は、半数近く(半数以上の説あり)は討ち死にしましたが、山口次郎さんを含めた数名は生き残り戦いを続け、会津戦争が終わった時も、山口次郎さんを含めた数名は生き残りました。
如来堂は、新撰組殉難地、神指城跡、として知られています。




如来堂から見た景色。














〜 大戸町(芦ノ牧温泉駅と周辺) 〜


「芦ノ牧温泉駅」は、会津鉄道の駅の一つです。




「猫(ねこ)」
肉食目ネコ科ネコ属の哺乳類。
名前などの詳細が気になる方は、各自でご確認ください。














「桜(さくら)」
バラ科。
撮影した年は様々な場所で桜の開花などに影響があり、撮影当日は、つぼみが多く数輪が開花を始めた状況だった。
寒さも続くため、構内などを暖める日があった。
駅の方が、駅舎内で暖めた桜の枝を飾っていた。
たくさんの桜が咲く写真が撮影できた。














「桜草(さくらそう)」
サクラソウ科。
日本では江戸時代から盛んに栽培していたそう。
園芸品種は数百種類にあるそう。
花言葉は「希望。青春の始まりと終わり。神秘な心。」だそう。
花言葉は姿などで違う花言葉になる時がある。
詳細は各自でご確認ください。







〜 鶴ヶ城(若松城) 〜


国史跡の名称は「若松城跡」。
室町時代〜戦国時代までの名称は「黒川城」。
戦後時代に城主変更や改修などにより「若松城(わかまつじょう)」に変更。
江戸時代の名称は「会津若松城(あいづわかまつじょう)」。
「若松城」の呼び名頃から、通称名は「鶴ヶ城(つるがじょう)」。
以上の「城」の付く呼び名があります。
「鶴ヶ城」・「若松城」の呼び名でご存知の方が多いかと思います。
戊辰戦争の中の会津戦争の時に、会津藩士・家族が籠城して戦った城です。
明治時代に城は取り壊されました。
現在の城は復元ですが、城や敷地の一部は当時のまま残っているそうです。
石垣から天守閣までの高さは、36.5m。
天主台(石垣部分)の高さは、11m。 天守閣の高さは、25.15m。




「桜(さくら)」の「染井吉野(そめいよしの)」と思われる。
バラ科。
背景の写る建物は、鶴ヶ城。














「桜(さくら)」の「染井吉野(そめいよしの)」と思われる。
桜の見頃に合わせて鶴ヶ城と桜をライトアップしていた。
残念ながら、撮影した年は様々な場所で桜の開花などに影響があり、撮影当日は、三分〜四分咲きくらいだった。
ラストアップされた桜を撮影。












「天守閣」
夕日に染まり始める鶴ヶ城を撮影。













〜 柳橋(涙橋) 〜

大字黒川に在ります。
「やなぎばし」と説明する方が多いですが、橋には「やなぎはし」と明記されています。
別名は「涙橋」です。
柳橋は、会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で、付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので、古くは「楊柳橋」と称されたそうです。
会津藩が上杉時代の慶長5年(1600年)に、上杉景勝によって神指城を築城する際、要所であるこの橋を、欄干のある堅牢や柳橋としたそうです。
この場所には、休み小屋が在って、刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族などと水杯を交わして別れを惜しんだところから「涙橋」とも呼ばれるようになったそうです。
戊辰戦争では、柳橋を通って鶴ヶ城に入城しようとする旧幕府衝鋒隊や萱野権兵衛隊と、阻もうとする新政府軍との間で激しい戦闘が行われています。
中野竹子さんもこの時の戦いに加わり戦います。
中野竹子さんはこの時の戦いの中で新政府軍の銃弾に倒れ亡くなります。




「桜(さくら)」
バラ科。
柳橋の傍で咲く桜を撮影。















           写真集トップ           


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください