このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
福島県 2011年9月 NO.2
後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2011.9.26撮影。
撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。
〜 会津若松市 〜
〜 大戸町(芦ノ牧温泉駅と周辺) 〜
「芦ノ牧温泉駅」は、会津鉄道の駅の一つです。
「猫(ねこ)」
肉食目ネコ科ネコ属の哺乳類。
名前などの詳細が気になる方は、各自でご確認ください。
芦ノ牧温泉駅のホームから撮影。
芦ノ牧温泉駅ホームから撮影。
「AIZU尾瀬エクスプレス号(快速列車)」
〜 御薬園 〜
会津藩二代藩主 保科正義が、園内に設け、各種の薬草栽培を試みたそうです。
三代藩主 松平 正容の時から次第に整備拡充されたそうです。
会津戦争中に西軍負傷者の保養所として利用されたそうです。
そのため、焼失などする事なく残ったといわれています。
薬草を撮影した関係で、効能を含めた説明などを書きました。
成分・効能・使用などの詳細は、各自でご確認をお願いします。
「藍(あい)」
タデ科
南ベトナム原産。
用部は、葉、果実、など。
生薬名は、葉は「藍葉(らんよう)」、果実は「藍実(らんじつ)」、など。
効能は、解熱、など。
民間では、防虫、虫の刺傷に利用、など。
用途は、生薬、染料、など。
日本には7世紀以前に中国から渡来しているそう。
花の色は、紅色を良く見かけるが、白色もあるそう。
葉の形は、丸や細長い形などもあるそう。
園内に居る鳥。
園内。
「藤袴(ふじばかま)」
キク科。
用部は、全草。
効能は、通経、利尿、発汗。
生薬名は「蘭草(らんそう)」
日本に古くからある花。
絶滅危惧種。
減少している主な原因は、河川の開発、道路工事、植物の遷移などになるそう。
100年後には、自生する「藤袴」が絶滅の可能性が非常に高いそう。
「秋の七草」の一つ。
「秋の七草」は、「萩(はぎ)、尾花(おばな)[※薄(すすき)]、葛(くず)、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、朝顔(あさがお)[※桔梗(ききょう)と言われています]」の以上七つ。
「花梨(かりん)」
バラ科。
用部は、果実。
用途は、鎮咳、利尿、収れん、強壮。
「長芋(ながいも)」
ヤマノイモ科。
中国原産。
用部は、根茎。
用途は、食用、生薬。
生薬名は、根茎は「山薬(さんやく)」
効能は、滋養、強壮、止瀉。
「夏黄櫨(なつはぜ)」
ツツジ科。
実は熟すと黒くなる。
実は、酸味があり、食べられるそう。
「錦木(にしきぎ)」
ニシキギ科。
秋に紅葉した葉が明るく美しい様子から付いた名前といわれている。
用部は、樹皮。
用途は、鎮痛、駆虫(果実の殺虫)、など。
新潟県では、準絶滅危惧種に指定。
福井県では、準絶滅危惧種に指定。
鹿児島県では、準絶滅危惧種に指定。
絶滅の危険がある植物になる。
「バラ」の「プリンセス チチブ」
バラ科。
イギリスで1971年作出。
フロリバンダ系。
皇族の秩父宮勢津子妃殿下に捧げられたバラ。
四季咲き性。
微香。
平成21年(2009年)9月9日、秩父宮勢津子妃殿下の御誕生百年記念「重陽祭」に、旧秩父宮ご別邸の秩父宮記念公園より寄贈されたバラだそう。
「桜蓼(さくらたで)」
タデ科。
高さ50〜10cm。
「桜蓼」は、枝先に穂状に付く花色が桜に似ている様子から名付けられた。
写真の「桜蓼」は白色なので「白花桜蓼(しろばなさくらたで)」と思われる。
「桜蓼」と「白花桜蓼」の効能は分からないが、説明板の内容を記載する。
[用部] 葉。
[用途] 虫の刺毒を消す。
[性状] 自生・多年草。
「秋明菊(しゅうめいぎく)」の「八重」と思われる。
「秋明菊」の一重の説明を記載する。
キンポウゲ科。
中国原産。
用部は、根。
効能は、「マラリア 打撲傷に内服」など。
八重の効能を含めた詳細は、各自でご確認ください。
「秋明菊」は、日本には古くに渡来。
秋に菊に似た花が咲くところから着いた名前。
別名は、「秋牡丹(あきぼたん)」、「貴船菊(きぶねぎく)」 「貴船菊」は、京都の北の貴船地方に多い事から付いた別名だそう。
「蔓紫(つるむらさき)」
ツルムラサキ科。
熱帯アジア原産。
用部は、茎、地上部。
用途は、茎を、製紙粘料、地上部は、食用。
更なる用途は、 観葉植物として栽培もするそう。
〜 喜多方市 〜
〜 喜多方駅 〜
磐越西線の駅の一つ。
喜多方駅のホームから撮影。
〜 蔵 〜
喜多方市は、蔵とラーメンが有名と話す方が多いです。
戊辰戦争の中の会津戦争が起きた時は、会津から離れていたため、被害が少なく、江戸時代に建てられた蔵が幾つも残ったそうです。
明治時代になると、藩などの規制が減り、裕福な家などが比較的自由に蔵を建てられるようになったそうです。
大正時代も裕福な家などが蔵を建てたそうです。
明治時代や大正時代は、蔵を建てるのは、富の象徴、目標、夢、だったそうです。
しかし、昭和時代の中頃になると、地域の開発・生活環境の変化などから、蔵を壊す・蔵の大改装が始まったそうです。
そのような状況の中で、喜多方市の或る写真家の方が、蔵の姿や蔵の在る風景をたくさん撮影したそうです。
後にその方の写真展が開かれて、多くの方が蔵の写る写真を見たそうです。
更に、テレビで喜多方市の蔵が紹介されたそうです。
喜多方市の蔵が注目されるようになりました。
そして、蔵を維持管理する人達や団体が増えたそうです。
「蔵」
建立:江戸末期。
種類:塗蔵、蔵座敷。
古くから漆器の製造を手がけるお店の蔵。
建立:明治四十三年(1910年)
種類:店蔵。
用途:米蔵。
明治三十七年(1904年)に、喜多方駅が営業を開始し、それに伴って、明治四十三年に、或る家の本家の駅前拠点として建てられた煉瓦建物群の一つ。
昭和五十一年(1976年)より、カフェとして開店。
撮影日現在もカフェとして利用。
写真集トップ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |