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福島県 2013年3月 NO.1


後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2013.3.4撮影。

撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。


前日から当日の天気の関係(降雪、積雪、等)、または、散水と思われる状況より、植物や地面などが濡れている写真、積雪・降雪をしている写真、があります。
ご了承ください。


~ 会津若松市 ~


~ 阿弥陀寺 ~


戊辰戦争の中の会津の地で戦った会津藩の戦死者の埋葬は直ぐに許されませんでした。
後に埋葬は許されましたが、阿弥陀寺と長命寺に限られたそうです。
藤田五郎さん(新撰組三番組組長 斉藤一さん)、妻の藤田時尾さん、息子さんの藤田勉さん、などが永久の眠りに就くお墓が在ります。
藤田五郎さんの希望により、阿弥陀寺に埋葬されたそうです。





境内に植わっている木と「冬囲い(ふゆがこい)」
「冬囲い」について説明。 樹木を積雪や冷気から保護する、樹木の枝が積雪で曲がる折れるなどにならないように、藁(わら)、筵(むしろ)、縄、などを使って囲む事。










~ 大戸町(芦ノ牧温泉駅と周辺) ~


「芦ノ牧温泉駅」は、会津鉄道の駅の一つです。




「猫(ねこ)」
肉食目ネコ科ネコ属の哺乳類。
名前などの詳細が気になる方は、各自でご確認ください


















「芦ノ牧温泉駅」構内の飾りを撮影。















芦ノ牧温泉駅の構内に飾られている花。















芦ノ牧温泉駅から撮影。
写真に写る車両は、「新千円札発行記念列」
野口英世博士の千円札を記念した車輌で、全面に野口英世博士と母シカさんの写真がペイントされている。












「氷柱(つらら)」















芦ノ牧温泉駅ホームで実施しているイルミネーション。
25,000個のライトを使っている。
時間限定・期間限定で実施。


















芦ノ牧温泉駅ホームから日没中に撮影。






























~ 麟閣 ~


天正十九年(1591年)に、千利休が豊臣秀吉の怒りに触れたために切腹により亡くなりました。
蒲生氏郷が千利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、千利休の子の千小庵を会津にかくまったそうです。
徳川家康と共に、豊臣秀吉に千家復興を願い出たそうです。
その結果、千小庵は京に戻って、千家を再興したそうです。
麟閣は、千小庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷のために造ったと伝わっています。
鶴ヶ城内で大切に使用されていました。
戊辰戦争後に、鶴ヶ城を取り壊す事になりました。
麟閣が失われるのを惜しんだ森川宗久が、明治5年(1872年)に自費で移築したそうです。
平成二年(1990年)に建造当初の場所に移築・復元されました。
福島県指定重要文化財に指定されています。




「蒲鶴亭」の「躙口(にじりぐち)




















「蒲鶴亭」















「寄付(よりつき)」
外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり身支度を整えて、席入りの準備をするための施設。
この寄付も、森川家から移築、復元したもの。









~ 鶴ヶ城(若松城) ~


国史跡の名称は「若松城跡」。
室町時代~戦国時代までの名称は「黒川城」。
戦後時代に城主変更や改修などにより「若松城(わかまつじょう)」に変更。
江戸時代の名称は「会津若松城(あいづわかまつじょう)」。
「若松城」の呼び名頃から、通称名は「鶴ヶ城(つるがじょう)」。
以上の「城」の付く呼び名があります。
「鶴ヶ城」・「若松城」の呼び名でご存知の方が多いかと思います。
戊辰戦争の中の会津戦争の時に、会津藩士・家族が籠城して戦った城です。
明治時代に城は取り壊されました。
現在の城は復元ですが、城や敷地の一部は当時のまま残っているそうです。
石垣から天守閣までの高さは、36.5m。
天主台(石垣部分)の高さは、11m。
天守閣の高さは、25.15m。




天守閣(本丸の最上階)から見た「南(朱雀)」方面の景色。
南方面には、大戸岳、が在る。














天守閣(本丸の最上階)から見た「西(白虎)」方面の景色。
西方面には、阿弥陀寺、如来堂、神指城跡、が在る。














天守閣(本丸の最上階)から見た「北(玄武)」方面の景色。
北方面には、磐梯山、飯盛山、旧滝沢本陣、が在る。














天守閣(本丸の最上階)から見た「北(玄武)」方面の景色。
磐梯山、が見えるように撮影。














「本丸」
江戸城・大阪城・名古屋城などの高い城を見ていたので、最初に見た時は想像より小さめに感じた。
しかし、江戸城・大阪城・名古屋城の城主の身分や立場から城の大きさを考えると、大きい城になるのは当時では当然の事になる。
鶴ヶ城は当時の城の中では、大きい方になるそう。
鶴ヶ城主の身分や立場が重要だった事が分かる。
鶴ヶ城の規模や大きさの城だったからこそ、一ヶ月もの籠城に耐えられたと思う。







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