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福島県 2014年12月 NO.2
後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2014.12.7撮影。
撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。
数日前から当日の天気の関係(降雪)、または、散水と思われる状況より、積雪、植物や地面などが濡れている写真があります。
ご了承ください。
~ 会津若松市 ~
~ 大戸町(芦ノ牧温泉駅と周辺) ~
「芦ノ牧温泉駅」は、会津鉄道の駅の一つです。
「シクラメン」
サクラソウ科。
別名には、「篝火花(かがりびばな)」がある。
「葉牡丹(はぼたん)」
アブラナ科。
江戸時代に野菜として渡来したそう。
キャベツを観賞用に改良したものだそう。
芦ノ牧温泉駅の構内の飾り。
芦ノ牧温泉駅から撮影。
芦ノ牧温泉駅から撮影。
写真に写る列車を説明。
「花咲く会津ラッピング車両」
2015年4~6月に、JRグループ6社と福島県が協力して、観光キャンペーンの「福島デスティネーションキャンペーン」を行う。
2014年4月~6月に、プレ・デスティネーションキャンペーンを行う。
会津鉄道では、デスティネーションキャンペーンのテーマの「花」に合わせて、ラッピング車両のデザイン募集を行い、「花咲く会津ラッピング車両」として運行する。
2014年4月5日から運行が始まった。
会津のゆるキャラ達がたくさん描かれている。
後方はピンク色、前方は紫色になっている。(運行などの関係で逆になる事が有る)
芦ノ牧温泉駅から撮影。
「真弓(まゆみ)」
「壇」とも書く。
ニシキギ科。
落葉低木。
初夏の頃に、緑白色のような黄緑色のような、小さな花が咲く。
秋の頃に、赤色のようなピンク色のような実が生る。
実は、ほぼ四角形で、熟すと四つに裂けて赤い種子が現れる。
木がしなるので、昔は弓の材料に使ったそう。
真弓の木から作った弓は、「真弓」、「壇弓」と書くそう。
~ 御薬園 ~
会津藩二代藩主 保科正義が、園内に設け、各種の薬草栽培を試みたそうです。
三代藩主 松平 正容の時から次第に整備拡充されたそうです。
会津戦争中に西軍負傷者の保養所として利用されたそうです。
そのため、焼失などする事なく残ったといわれています。
薬草を撮影した関係で、効能を含めた説明などを書きました。
成分・効能・使用などの詳細は、各自でご確認をお願いします。
「美男葛(びなんかずら)」
モクレン科。
用部は、成熟果実。
用途は、滋養、強壮、鎮席薬、、五味子の代用、など。
昔は整髪に美男葛の樹液を使ったことから付いた名前だそう。
生薬名は「南五味子(なんごみし)」
別名は「実葛(さねかずら)」
園内に居る鳥を撮影。
「園内」
「ハイゴヨウマツ」
説明板に「推定樹齢500年」の記載あり。
「一位(いちい)」
イチイ科。
別名は「蘭(あららぎ)」
神事、工芸品、天上板、鉛筆材、などに利用。
果実、を、食用、果実酒、に利用。
有毒部分が有る。
注意が必要。
詳細は各自でご確認をお願いします。
「花梨(かりん)」
バラ科。
用部は、果実。
用途は、鎮咳、利尿、収れん、強壮。
「木蔦(きづた)」
ウコギ科。
別名は「冬蔦(ふゆづた)」
用部は、葉茎。
用途は、発汗、民間で止血、など。
「蔦(つた)」は、ブドウ科、「冬蔦」は、ウコギ科、なので、蔦と直接の関係はない。
「隈笹(くまざさ)」
イネ科。
「熊笹」とも書く。
冬に縁が白く枯れて美しく隈どる様子からついた名前だそう。
葉を「隈笹葉」といい、そのエキスを健胃剤として利用、また、民間で青汁原料にする、そう。
笹団子、笹寿司、ちまき、などにも利用。
落ち葉。
「山茱萸(さんしゅゆ)」
ミズキ科。
用部は、核を除いた果肉。
用途は、強壮、止血、収斂、など。
秋には赤く実が熟す。
別名は、「春黄金花(はるこがねばな)」(早春に、芽が出る前に黄色い花を咲かせるので)、「秋珊瑚(あきさんご)」(熟する実も美しいため)。
「石灯籠」
「ビオラ」
スミレ科。
「八手(やつで)」
ウコギ科。
常緑低木。
名前の由来は、八つ手の意味で、掌を広げたような葉の形に由来する。
用部は、葉。
用途は、痰去、浴湯料、など。
~ 喜多方市 ~
~ 喜多方駅 ~
磐越西線の駅の一つ。
今回は、喜多方駅前で撮影。
「木々」と「冬囲い」
「冬囲い」について説明。
樹木を積雪や冷気から保護する、樹木の枝が積雪で曲がる折れるなどにならないように、藁(わら)、筵(むしろ)、縄、などを使って囲む事。
~ 蔵 ~
喜多方市は、蔵とラーメンが有名と話す方が多いです。
戊辰戦争の中の会津戦争が起きた時は、会津から離れていたため、被害が少なく、江戸時代に建てられた蔵が幾つも残ったそうです。
明治時代になると、藩などの規制が減り、裕福な家などが比較的自由に蔵を建てられるようになったそうです。
大正時代も裕福な家などが蔵を建てたそうです。
明治時代や大正時代は、蔵を建てるのは、富の象徴、目標、夢、だったそうです。
しかし、昭和時代の中頃になると、地域の開発・生活環境の変化などから、蔵を壊す・蔵の大改装が始まったそうです。
そのような状況の中で、喜多方市の或る写真家の方が、蔵の姿や蔵の在る風景をたくさん撮影したそうです。
後にその方の写真展が開かれて、多くの方が蔵の写る写真を見たそうです。
更に、テレビで喜多方市の蔵が紹介されたそうです。
喜多方市の蔵が注目されるようになりました。
そして、蔵を維持管理する人達や団体が増えたそうです。
建立:明治四十三年(1910年)
種類:店蔵。
用途:米蔵。
明治三十七年(1904年)に、喜多方駅が営業を開始し、それに伴って、明治四十三年に、或る家の本家の駅前拠点として建てられた煉瓦建物群の一つ。
昭和五十一年(1976年)より、カフェとして開店。
撮影日現在もカフェとして利用。
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