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関西 2013年8月 NO.1
後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2013.8.16撮影。
撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。
「関西」の定義は、様々な定義があります。
当サイトの写真集では、「近畿」より広く考える定義を基にしました。
ご了承ください。
~ 京都府 ~
~ 五山送り火 ~
「ござんのおくりび」
「五山の送り火」とも書く。
京都の夜に行われる伝統行事。
毎年、8月16日に、京都府京都市に在る、「如意ヶ嶽(大文字山)」(京都市左京区)、「西山(万灯籠山)」及び「東山(大黒天山)」(共に、京都市左京区)、「妙見山(船山)」(京都市北区)、「左大文字山」(京都市北区)、「曼荼羅山」(京都市右京区)、で行われる「篝火(かがりび)」
「大文字の送り火(だいもんじのおくりび)」と呼ばれる事がある。
「お精霊(おしょらい)さん」と呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届ける行事。
「五山送り火」は、「大文字」(如意ヶ嶽[大文字山])、→「松ヶ崎妙法」(西山、及び、東山)、→「船山万灯籠」(船山)、→「左大文字」(左大文字山)、→「鳥居形松明」(曼荼羅山)、以上の順番で点火する。
「五山送り火」の山に画かれた字に点火する方法の始まった詳細な記録は無いそう。
「五山送り火」の基になる方法を始めた人物には、幾つかの説がある。
「五山送り火」の文字が揃ったのは、江戸時代初期から中期のよう。
「五山送り火」は、昔と今では点火方法が変わっているが、山に画かれた字に点火している。
「五山送り火」は、江戸時代後期などの時代に、上記の山以外で別な絵柄「(い)[市野原]、(一)[鳴滝]、(竹の先に鈴)[西山]、(蛇)[北嵯峨]、(長刀)[観音寺村]」でも点火していた時代があるそうだが途絶えたそう。
江戸時代の頃は、旧暦の7月16日に行っていたよう。
「五山送り火」の季語は、「初秋」になるそう。
「五山送り火」には休止期間があった。
明治五年(1872年)に、文明の進歩を妨げるとして布達した中に「五山送り火」も含まれていた。
そのため、明治十六年(1883年)に処分が取り消されるまで中止が続いた。
灯火管制のために、昭和十八年(1943年)から昭和二十年(1945年)まで中止が続いた。
「大文字(だいもんじ)」
撮影場所は控えさせてください。
~ 京都府立植物園 ~
「京都市左京区下鴨半木町」に在る。
園内の敷地面積:約24ha。
大正六年(1917年)に着工。
大正十三年(1924年)1月1日に「大典記念京都植物園」として開園。
第二次大戦中は園内に菜園が設けられ、食糧増産の場になった。
第二次大戦後は、昭和21年(1946年)から12年間、連合軍に接収され閉園なった。
昭和三十六年(1961年)4月、再び公開した。
入園料必要。(撮影日の確認)
「変化朝顔(へんかあさがお)」の「黄斑入抱芋葉紫筒白丸咲(きふいりかかえいもばむらさきつつじろまるざき)」
ヒルガオ科。
「変化朝顔」は、「変化咲き朝顔(へんかざきあさがお)」とも呼ぶ。
「丸咲」は、丸い形に咲く朝顔。
「正木系統(まさきけいとう)」
この変化朝顔の名前の見方は、「黄」色の「斑入」の「抱葉」の形で、「紫」色の花の「筒」の「白」い「丸咲」の朝顔、になると思われる。
江戸時代に流行した珍しい「朝顔(あさがお)」 「変化朝顔」は、「出物系統(でものけいとう)」と「正木系統(まさきけいとう)」に分かれる。
「正木系統」は、単純な突然変異が見られるもので、どの株からも種子を採る事が出来るそう。
「出物系統」は、花、葉、蔓などが変化に富んでいるため、種子の採れる株と、種子の採れない株に分かれるそう。
「変化朝顔」は、遺伝子などが関係しているので、名前の通りに咲かない事があるそう。
変化朝顔の名前は漢字が長く続く事が多い。
名前の見方は朝顔の特徴を表している。
「葉の色」→「葉の形状」→「茎」→「花の色」→「花の形状」となっている事が多い。
「変化朝顔」の「黄打込渦桔梗葉紺系覆輪桔梗咲(きうちこみうずききょうばこんいとふくりんききょうざき)」
「桔梗咲き」は、花が星型に咲き、花びらの先が尖って咲く事により、桔梗の花のように咲く朝顔。
「変化朝顔」の「青斑入打込渦笹葉深切笹咲(あおふいりうちこみうずささばふかきれささざき)」
「四角豆(しかくまめ)」
マメ科。
熱帯アジア原産。
多年草。
断面が四角形なところから付いた名前。
「トレニア」の「カウアイ ディープブルー」
ゴマノハグサ科。
「カウアイ」の名前の付くシリーズの一種類。
~ 角屋 ~
「すみや」
「京都市下京区西新屋敷場屋町」に在る。
寛永十八年(1641年)の島原開設当初から連綿と続く揚屋(あげや)になる。
揚屋は、今でいう料亭で、江戸時代の京都では、民間最大規模の宴会場になる。
揚屋は、置屋(おきや)から太夫(傾城[けいせい]の最高位)や芸妓を呼び、遊宴をする所になる。
島原の角屋をはじめとする揚屋は、遊宴のみならず、和歌、俳諧の文芸の席、お茶の席があり、文化サロンとしての役割を果たしていた。
新撰組の局長クラスの宴会が行われていた。
芹沢鴨さんは、文久三年(1863年)九月十八日に、角屋で行われた新撰組局長クラスの宴会に出席し、その夜、屯所で暗殺された。
昭和二十七年(1952年)、重要文化財に指定された。
※今回は、臨時公開期間中の撮影。
一部期間限定公開。(撮影日確認)
入園料必要。(撮影日の確認)
「石碑」
角屋を外側から撮影。
「石碑」
「庭」
昔は一本の松で形作っていたが、松が古くなり形を作れなくなった。
現在は、新しく松を植えて、複数の松の木で以前の松の形を作っている。
「庭」
角屋を外側から撮影。
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