このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


関西 2016年7月 NO.1


後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2016.7.16撮影。


撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。


「関西」の定義は、様々な定義があります。
当サイトの写真集では、「近畿」より広く考える定義を基にしました。
ご了承ください。

前日から当日の天気の関係(降雨)、または、散水と思われる状況より、降雨、植物や地面などが濡れている写真があります。
ご了承ください。


~ 京都府 ~


~ 毘沙門堂 ~


「びしゃもんどう」
「京都市山科区」に在る。
通称は「毘沙門堂門跡(びしゃもんどうもんぜき)」
天台宗の門跡寺院。
七福神のひとつの毘沙門天をご本尊とする。
ご本尊に七福神のひとつの毘沙門天を祀ることから「毘沙門堂」の名がある。
創建は、大宝三年(703年)、文武天皇の勅願で行基によって開かれたと伝わる。
寛文五年(1665年)、天海僧正の弟子・公海大僧正によって現在地に再興。
後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してより門跡寺院となった。
代々法親王が住持。
施設の一部は入場料必要。(撮影日確認)




「桔梗(ききょう)」
キキョウ科。
絶滅危惧種。
減少している主な原因は、園芸用の採取、草地植生の遷移、草地の開発になるそう。
既に絶滅している地域があり、毎年のように減少していると思われる。
このままだと100年後には自然界で自生する桔梗は絶滅すると考えられているそう。







「晩翠園(ばんすいえん)」
宸殿奥に在る。
江戸初期の回遊式庭園。













「本堂」
「獏(ばく)」だそう。



















「本堂」

























「仁王門」




















「紫陽花(あじさい)」
ユキノシタ科。














仁王門と参道。


















~ 藤森神社 ~


「ふじのもりじんじゃ」
「京都市伏見区深草鳥居崎町」に在る。
今から約1800年前に、神功皇后によって創建された皇室ともゆかりの深い古社。
「菖蒲の節句の発祥の神社」として知られている。
現在は、「勝運と馬の神様」としても知られている。
「紫陽花苑」が在り、たくさんの紫陽花が植えられている。
一部有料施設有り。(撮影日確認)




「不二の水(ふじのみず)」
説明板の内容を転記する。
−−−
藤森神社の創建は平安遷都以前。
桓武天皇により都の南を護る守護神、大将軍社が置かれました。
五月五日に行われる藤森祭(深草祭)は平安時代に清和天皇の勅命による「貞観の祭」を起源とし、武者行列や駈馬神事が行われます。
藤森神社は端午の節句に武者人形を飾る菖蒲の節句発祥の地。
ご神水「不二の水」は二つとないおいしい水という意味で、武運長久・学問向上、特に勝運を授ける水として信仰されています。
−−−










「狛犬」

























「楠(くすのき)」
クスノキ科。
常緑高木。
「樟」とも書く。















~ 伏見稲荷大社 ~


「ふしみいなりたいしゃ」
「京都市伏見区深草藪之内町」に在る。
境内地は、約27万坪。
稲荷神を祀る日本全国3~4万社の稲荷神社の総本宮とされる。
稲荷山の麓に本殿が在り、稲荷山全体を神域とする。
和銅四年(711年)二月初午、稲荷山に大神様がはじめて鎮まられた事を起源としている。







「楼門(ろうもん)」と「狛狐」
「楼門」について説明。
この楼門は、天正十七年(1589年)、豊臣秀吉の造営とされてきた。
豊臣秀吉の母の大政所の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加すると記した願文が伝来している。
造営伝承と伝来文書との整合性に多少の疑問があったが、昭和四十八年(1973年)、楼門の解体修理が行われたところ、願文と同じ年次の天正十七年年の墨書が発見されたそう。
伝承の正しかったことが確認された。
神社の楼門の規模としては最も大きいものになる。




「本殿」















たくさんの鳥居が連なるスタートの場所。
「千本鳥居」として有名だが、スタートの場所は「千本鳥居」に含まれないらしい。
「千本鳥居」の詳細は各自でご確認ください。












「千本鳥居」
千本鳥居は二手に分かれている。














「千本鳥居」
千本鳥居は二手に分かれている。
一方の千本鳥居の中から撮影。


















~ 双林院 ~


「そうりんいん」
「京都市山科区安朱稲荷山町」に在る。
通称は、「山科聖天(やましなしょうてん)」
山号は、「護法山」
宗派は、「天台宗」
創建年は、寛文五年(1665年)
開基は、公海大僧正。
「毘沙門堂跡」の塔頭。




「参道」















「手水」




















緑色の木の葉。















赤く色付く木の葉。













~ 宇治神社 ~


「うじじんしゃ」
「宇治市宇治山田」に在る。
重要文化財。
宇治市案内板より
−−
宇治神社は、日本書紀に「応神天皇の皇子で、兄である仁徳天皇との皇位を巡る葛藤から宇治で自殺した」 と記されている、悲運の皇太子菟道稚郎子の等身大の坐像を祀っており、付近は菟道稚郎子が造営した桐原日桁宮跡と伝えられています。また、明治維新までは、宇治上神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社、離宮下社と名付けられていました。現在の本殿及び外陣の狛犬は鎌倉時代につくられたもので、狛犬は開口する獅子(阿形)と一角を持つ狛犬(吽形)で一対とされ、格調高い作品として極めて貴重なものです。当社の祭礼である離宮祭は、田楽等の芸能が催され、平安後期から鎌倉時代には多くの人々が集まり大いに賑わいました。
−−




「狛犬」

























緑色の木の葉。















「手水」


















~ 宇治上神社 ~


「うじがみじんじゃ」
「宇治市宇治山田」に在る。
平成六年(1994年)、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。
拝殿、本殿、は、国宝。
宇治市案内板より
−−
宇治上神社は、明治維新までは隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていました。祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子莵路稚郎子のほか、父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています。本殿は平安時代後期の神社建築としては最古のものに属する建造物で、一間社流造の内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋をかけたものです。また、その身舎の扉には、建立当時の絵画が遺されています。なお、境内に湧き出ている桐原水は、宇治七名水の一つとされています。
−−




「清め砂」















「欅(けやき)」
ニレ科。
説明板の一部を書く。
−−
宇治市名木百選
高さ 27m
幹周 4.8m
樹齢 300年
−−












「桐原水(きりはらすい)」
「宇治七名水」の中、現存する唯一の湧水。
※「生水はお飲みいただけません。」の注釈有。













「狛狐」

























「狛犬」

























緑色の木の葉。













~ 宇治川 ~


「淀川(よどがわ)」水系中流の河川。
淀川水系は、一級河川、流路延長 75.1km。
淀川水系の水源は、「琵琶湖(ぴわこ)」
滋賀県大津市で琵琶湖から流れ出る。
ここでは、「瀬田川(せたがわ)」と呼ばれる。
滋賀県大津市南郷の「洗堰(あらいぜき)」から下流を宇治川と呼ぶ。
宇治川は京都府と滋賀県の境にあたる醍醐山地を、くの字形の流路をとって流れるが、峡谷美に富むため、「宇治川ライン」と呼ばれる。
宇治市から京都盆地を西流して、大阪府との境の大山崎町で「桂川(かつらがわ)」、「木津川(きづがわ)」と合流して淀川となる。




「喜撰橋」付近から撮影。




























           写真集トップ             


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください