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関西 2016年8月 NO.1


後日、写真等の差換え変更等の可能性があります。
ご了承ください。
2016.8.20撮影。


撮影場所に関する簡単な説明を掲載します。
詳細は各自でご確認ください。


「関西」の定義は、様々な定義があります。
当サイトの写真集では、「近畿」より広く考える定義を基にしました。
ご了承ください。


~ 京都府 ~


~ 粟田神社 ~


「あわたじんじゃ」
「京都市東山区粟田口鍛冶町」に在る。
主祭神は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」、「大己貴命(おおなむちのみこと)」
建立は、貞観十八年(876年)、と伝わる。
旧社名は、「感神院新宮(かんじんいんしんぐう)」、「粟田天王宮」と称されていた。
明治時代になり、「粟田神社」と改称された。




「手水」















「芙蓉(ふよう)」
アオイ科。














「狛犬」






























緑色の木の葉。















「参道」




















「鳥居」













~ 藤森神社 ~


「ふじのもりじんじゃ」
「京都市伏見区深草鳥居崎町」に在る。
今から約1800年前に、神功皇后によって創建された皇室ともゆかりの深い古社。
「菖蒲の節句の発祥の神社」として知られている。
現在は、「勝運と馬の神様」としても知られている。
「紫陽花苑」が在り、たくさんの紫陽花が植えられている。
一部有料施設有り。(撮影日確認)




「不二の水(ふじのみず)」
説明板の内容を転記する。
−−−
藤森神社の創建は平安遷都以前。
桓武天皇により都の南を護る守護神、大将軍社が置かれました。
五月五日に行われる藤森祭(深草祭)は平安時代に清和天皇の勅命による「貞観の祭」を起源とし、武者行列や駈馬神事が行われます。
藤森神社は端午の節句に武者人形を飾る菖蒲の節句発祥の地。
ご神水「不二の水」は二つとないおいしい水という意味で、武運長久・学問向上、特に勝運を授ける水として信仰されています。
−−−




「狛犬」

























「百日紅(さるすべり)」
ミソハギ科。
中国原産。











~ 京都大神宮 ~


「きょうとだいじんぐう」
「京都市下京区寺町通四条下る貞安則之町」に在る。
維新後の明治時代、江戸時代末期より盛んだったお伊勢参りが叶わない人々の為に、都道府県に「伊勢神宮」が遥拝出来る設備を設けると共に、伊勢神宮大麻の頒布などを行うことへの要請があった。
明治六年(1873年)七月、伊勢神宮の内宮より、「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」、伊勢神宮の外宮より「豊受大神(とようけのおほかみ)」の御分霊をお迎えし、諾冊二神、八柱大神、「大地主神」(おほとこぬしのかみ)、「倭比売命(やまとひめのみこと)」を配祀した。
明治八年(1875年)、社殿を建立した。
明治十四年(1881年)、神宮遥拝所を創建、神風講社を設立した。
戦後、「京都大神宮」として再出発した。




「手水」
この手水舎の水盤は、伏見城にあったものを寄進、移築されたと伝わっている。













「鳥居」













~ 建勲神社 ~


「たけいさおじんじゃ」
「京都市北区紫野北舟岡町」に在る。
御祭神は、「織田信長」公。
配祀は、「織田信忠」卿。
明治二年(1869年)、明治天皇の御下命により創建された、織田信長をお祀りする神社。
明治三年(1870年)、「建勲神社」の神号を賜る。
明治八年(1875年)、別格官幣社に列せられる。
明治十三年(1880年)、社殿を新たに造営して、織田信長嫡子の織田信忠を配祀した。
「けんくんじんじゃ」とも呼ばれている。
「けんくんさん」とも呼ばれている。




「手水」















「狛犬」
参道の入り口に在る狛犬。
























「狛犬」
本殿付近に在る狛犬。
























緑色の木の葉。















「参道」




















「神門(祝詞舎)」















「鳥居」
木造の明神鳥居。
幅:5.5m、高さ:7.2mに及ぶ。











~ 豊国神社 ~


「とよくにじんじゃ」
「京都市東山区正面通本町東入茶屋町」に在る。
「豊臣秀吉」を祀る神社。
親しみを込めて「ホウコクさん」とも呼ばれている。
豊臣秀吉の死後、朝廷より、正一位の神階、「豊国大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を賜る。
豊臣氏の滅亡後、徳川幕府により、廃絶された。
明治十三年(1880年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が再建され、別格官弊者として復興された正面に在る「唐門」はは、伏見城の遺構と伝えられ、二条城から金地院を経て、この地に移築されたものになる。
一部施設有料。(撮影日の確認)




「手水」















「瓢箪(ひょうたん)」
ウリ科。



















「鳥居」















「参道」と「唐門」





















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