このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

京都の道路について

京都は住所表記に道路名をつけるというのは有名である。例えば京都市役所の住所「京都市中京区寺町通御池上ル上本能寺前町488番地」では、寺町通と御池通の2つの通りがついている。

平安京の成立

平安京は南北約5.25キロ、東西約4.4キロの計画都市で、最北部中央に大内裏をおき、大内裏の南中央には朱雀門をおいた。その2つを都のメイン道路である朱雀大路を走らせ、これの東を左京、西を右京とした。そしてそれぞれの京は条坊制というシステムによってこまかくブロックに区切られていた。そのブロック分けの根幹となったのが大路・小路であった。南北に走る大路11・小路22、東西に走る大路13・小路26があった。大路は朱雀大路が幅員約85メートル、二条大路が約50メートル、ほかは約36・30・24メートルであった。小路は原則幅員12メートルであったが、中央を川が流れている堀川小路・西堀川小路などは幅員が大路級のものも存在した。細かい事は こちらを参照

通り名

平安京の道路には名前、いわばニックネームがついていたが、平安京開設当初からついていたかどうかは疑問である。一条大路などの○条大路は当初からついていたと思われるが、他は明らかではない。10世紀になると愛称が定着し始める。紹介したページにあるように、ブロック制による住所表記では「左京五条三坊十一町西四行北八門」となるのが、愛称を使えば「烏丸小路高辻通角」と分かりやすくなる。「左京五条三坊…」では一体どこなのか意味不明である。よって10世紀以降は官庁もブロック制による表記とともに交点となる道路の座標を書くようになった。一見ややこしいように見られる京都の住所表記はこのように自然な流れから生まれたのである。

上と下

平安後期になると右京が衰え始めた。右京が低地で湿地帯などが多かった事による。そして北端の一条大路以北や鴨川の東側にも都市が拡大し始めた。それによって京都は細長い街になり、左・右という概念から上・下という概念が生まれるようになった。その境となる線は朱雀大路の次に幅員の広い二条大路であった。室町時代になると上京・下京という言葉が使われるようになった。

そしてこの頃になると、洛中の道路沿いに店などが出るようになり、道路は狭くなっていった。この時代に小路でも幅員12メートルというのは広すぎであろう。それによって道路を挟んだ地域が「町」というコミュニティを形成するようになった。その「町」が組を形成するようになって「町組」となり、それが集合して上京・下京の地域連合体を形成するようになった。今でも道路を挟んで両側の地域が行政上の一つの「町」である。昭和40年代に全国の主要都市では「町」の統合が行われたが京都は旧来からの「町」が今でも健在である。

応仁の乱による壊滅と豊臣秀吉の復興

1467年から11年間に渡って続いた応仁・文明の乱で京都は壊滅的な被害を受けた。東軍・西軍ともに焼き討ち戦法を用いて戦った事により、京都は荒野の如くになった。公家や僧侶も地方に避難した。東寺や北野天満宮まで灰になってしまった。「なれや知る都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても落ちる涙は」という飯尾彦六左衛門が京都の惨状を詠んだ歌が有名である。

この状態から復興させたのが下京の町衆(商工業者)であった。応仁の乱によって誰も守ってくれなくなったので町衆は自治組織を結成し、町中に柵や堀をめぐらせて自分たちの町を守った。

その後、豊臣秀吉は京都市街地の大改造をおこなった。平安京のイメージを取り戻すために応仁の乱で廃れた道路を復興させ、碁盤目の街を再興するとともに、街を御土居という塀でぐるっと囲んだ。JR京都駅のホームが最近までこの御土居の上にあった。この秀吉の作った道路が今の通りの直接の起源である。



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