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南北の通り紹介



白川通(しらかわどおり)  上高野地域−丸太町通
南禅寺道(なんぜんじみち)  丸太町通−仁王門通
大半が明治末期から昭和初期に解説された。名称は白川地域を通っていることによる。第2次大戦後は市電も走っていた。白川は河床が石英を主とする白砂からなっていることから名がついた。丸太町通以南は南禅寺のそばを通ることから南禅寺道という。


明治45年、祇園-白川の祇園広道(小堀通)が拡幅するなどして大正元年に開通。のちに九条通・北大路通とつながって環状道路の1辺をなす。


大正4年に開通した。明治17年発行の地図によるとこの辺は農村だった。京都帝国大学開校や市街地拡張により市街地となった。


祇園の歓楽街を抜ける通り。三条通以北は新東洞院通と連続している。


古く大和街道にあたるのが由来である。開通時期は不明。「京羽二重」によると、三条−四条間を縄手通、四条−五条間を建仁寺通、五条以南を大仏仁王門通と称し、狭義的には縄手通のみを指した。現在は三条−四条間を縄手通、四条以南を大和大路通とよぶ。縄手の名は鴨川の堤(縄手)に沿っていたことによる。元禄期までは祇園縄手通の名前が一般的であった。大仏仁王門の由来は通り沿いにある方広寺の大仏による。現在左京区にある仁王門通とは関係がない。


宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町通の北側がなくなったため、この地域の住民が引っ越してきた地域についた通り名。丸太町通は東西の通りだが、これは南北のとおりである。


江戸時代に開通した道。刀剣の鞘師や柄巻などの職人が住んでいたからこの名前がついた。


天正・慶長年間に開通した。名前は魚屋や青果の市が立ち、商家が並んでいたことによる。


宮川筋とも言う。由来は鴨川の別称の宮川から来ているというものと、中国伝説王朝 夏の禹王の墓があるからというものがある。祇園社附近で最初に人家が建ったのがこの辺りで、寛文6(1666)年に開通した。宝暦元(1751)年、全域が遊郭になり、現在も花街の1つとして京都の伝統を伝えている。


開通時期は不詳。荒神口以南は寛文8(1667)年、鴨川に石垣を築き、道路と川床の区別ができて道路となった。長らく三条通までであったが、昭和62(1987)年、京阪電車が地下化されたのを機に琵琶湖疎水を暗渠化し、京阪電車の線路跡と合わせて川端通とし、塩小路通まで延長した。四条付近には牛馬専用の道があった。




寛文10(1670)年開通。由来は砂洲の先端部を意味するポルトガル語がなまって「ぽんと」になったという説が有力である。化政 文化時代から鴨川河川敷に席を設ける店が増え、後に歌舞練場もできて花街として成長していった。


慶長16年(1611)から18年(1613)にかけての高瀬川の改作に伴い、その東岸に開かれた。開通当時は伏見から木材・薪炭を搬入し販売する家が多かったからということで樵木町通と呼ばれた。享保年間(18世紀前半)に木屋町通と呼ばれるようになったらしいが、その前から三条下ル-四条間には「木や町」という町名が存在していた。文化・文政時代(19世紀前半)に酒楼旗亭を設け、娯楽の場となり現在に至っている。


上河原町中筋通ともいう。宝永5(1708)年開通。南北両端ともに丁字路である。


北側は宝永5(1708)年、南側は宝永3(1706)年に開通した。由来は豊臣秀吉が築いた御土居を切り崩して通りにしたことによる。ともに御土居を聞き崩しているので離れた2つの通りが同じ名前を名乗っている。


東三本木通(ひがしさんぼんぎどおり)  
西三本木通(にしさんぼんぎどおり)
京都府立医大の南−丸太町通  途中で東西2本に分かれるが再び合流する
江戸時代から見られる。もともとは東洞院通沿いの町名であったが、そのうちの一部が宝永5年の大火災によりこの地に移転してきた。現在でも中京区の東洞院通沿いや左京区の新東洞院通沿いに三本木町という地名が見られる。


豊臣秀吉の京都市街地改造後に開かれた通り。天正19年(1591)、秀吉は京の街を囲む御土居を作ったが、その東側は鴨川西岸とし、氾濫から街を守った。その後、御土居の東側に徐々に町家が建てられたことから、寛文期(17世紀後半)に鴨川の新堤が作られ、洛中の区域が拡大。河原町通が開通される条件が整った。「京雀(17世紀半ばに刊行された京都の案内書)」には、二条以南は豪商角倉家がこの通りにあるので角倉通と言う、と記されている。しかしこの他にも加賀前田・長州毛利・土佐山内などの大名屋敷がこの通り沿いに並んでいた。明治以降、南北に延伸した。


明治5年、当時の槇村知事の構想によって寺町通の東側に開設された通り。由来は隣の寺町通はかつて東京極大路と呼ばれていたことによる。寺町通の東側に集中してる寺院の背後にある空き地を利用して芝居小屋や映画館などを作って歓楽街を形成しようというのが当初の構想であった。そして現在でも京都の若者文化の発信地として隣の寺町通とともに賑わっている。


平安京の東京極大路にあたる。豊臣秀吉の京都市街地改造で、洛中の浄土宗・日蓮宗・時宗の寺をこの通りの東側に強制移転させたことにより寺町通と呼ばれるようになった。江戸時代には寺町通沿いに117の寺院があった。


豊臣秀吉の京都市街地改造で開通した通り。名称の由来は、秀吉が大坂から禁中参内する時にこの通りを必ず通ったであるとか、伏見城から皇居に来る時に通ったといった説があるが、どれも確かではない。初めは下立売通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町以北がなくなり、この地域に住んでいた人は下長者町通浄福寺西入に移転した。


麩屋町通(ふやちょうどおり)  丸太町通−五条通
新麩屋町通(しんふやちょうどおり)  仁王門通−三条通
平安京の富小路にあたる。名称の由来は豆腐や麩などを売る人が多く住んでいたことによるが、江戸時代前半にはすでに他の職業も多く混ざっていたようだ。麩屋町御池に白山神社という神社があったことから白山通とも呼ばれる。初めは下立売通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町以北がなくなり、この地域に住んでいた人は鴨東の仁王門通下ルに移転した。


富小路通(とみのこうじどおり)  丸太町通−五条通
新富小路通(しんとみのこうじどおり)  仁王門通−孫橋通
平安京の富小路と万里小路(までのこうじ)のほぼ中間にあたる。この通りの北に華族富小路家があることによるとあるのだが、実際は秀吉の市街地改造による混乱で名前が移転したようだ。初めは下立売通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町以北がなくなり、この地域に住んでいた人は鴨東の仁王門通下ルに移転した。


柳馬場通(やなぎのばんばどおり)  丸太町通−五条通
新柳馬場通(しんやなぎのばんばどおり)  仁王門通−三条通
平安京の万里小路(までのこうじ)にあたる。応仁・文明の乱による荒廃後、豊臣秀吉の市街地改造によって再開された。近世にも旧名の万里小路と呼ばれることもあった。慶長9年(1604)の豊国神社臨時祭の時に高倉通から鴨川にかけての三条通筋に広がっていた原野で馬揃が行われ、その際に柳の木が植えられ整備されたことから柳馬場の名がつけられた。初めは下立売通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町以北がなくなり、この地域に住んでいた人は鴨東の仁王門通下ルに移転した。


堺町通(さかいまちどおり)  丸太町通−七条通 仏光寺によって中断
新堺町通(しんさかいまちどおり)  仁王門通−孫橋通
豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。この通りの辺りより東は家がなく、街の境目であったから堺町という名がついた。三条周辺に中古材木屋敷が多くあったので材木町通という別名もあった。また、四条周辺に亀屋某という人が住んでいたので、亀屋突抜という名前もあった。初めは出水通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町以北がなくなり、この地域に住んでいた人は鴨東の仁王門通下ルに移転した。


平安京の高倉小路にあたる。大昔、この通りの北に藤原氏の別第高倉殿があったので高倉小路と呼ばれていたが、大永3(1523)年、頂妙寺をここに移したのでそれ以来頂妙寺通と呼ばれた。しかし寛文13(1673)年にこの寺を仁王門に移したので、旧称の高倉通が復活した。初めは下立売通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町以北がなくなり、この地域に住んでいた人は鴨東の仁王門通下ルに移転した。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。道ができてから人家が立ち並ぶようになり、東洞院と高倉の間にある町ということで間之町という名がついた。初めは上長者町通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町以北がなくなり、この地域に住んでいた人は鴨東の仁王門通上ルに移転した。


東洞院通(ひがしのとういんどおり)  丸太町通−九条通(竹田街道)
新東洞院通(しんひがしのとういんどおり)  二条通−仁王門通
平安京の東洞院大路にあたる。古来洞院川という川があり、それにより洞院東大路とも称したという説や、退位した天皇が住む洞院がこの通り沿いに多くあったためという説がある。北の方では三本木通とも称した。初めは上長者町通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町以北がなくなり、この地域に住んでいた人は鴨東の仁王門通上ルに移転した。


車屋町通(くるまやちょうどおり)  丸太町通−塩小路通 姉小路通−松原通で 中断
新車屋町通(しんくるまやちょうどおり)  二条通−仁王門通
豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。車借業者がこの通り沿いに多く住んでいたためこの名がついた。松原通以南は不明門通(「あけずのもんどおり」または「あけずどおり」)と呼ばれる。こちらは松原通の平等寺(因幡堂)の門が常に閉じられていたことによる。「因幡堂突抜」の異称もある。初めは出水通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって丸太町以北がなくなり、この地域に住んでいた人は鴨東の仁王門通上ルに移転した。


烏丸通(からすまどおり)  今宮通−十条通 塩小路通−八条通で中断
新烏丸通(しんからすまどおり)  荒神口通−二条通
「からすまる」とも読む。平安京の烏丸小路にあたる。応仁・文明の乱で四条以南は荒廃したが、豊臣秀吉の市街地改造により再開。七条以南は幕末に至るまで市街地化されなかったが、明治10(1877)年、京都駅の設置により開かれ、延伸・拡幅が繰り返され、南北のメインストリートになった。宝永5年(1708)の皇居拡張によってこの通りの東側地域に住んでいた人は荒神口−二条通間の東京極大路の東側に移転した。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。両替町通が開通する以前、この辺りは南北朝時代の太政大臣・二条良基の子孫の邸宅があった。これの開通によって二条邸は移転した。通りの名前の由来は金座や銀座がここにあったからだが、金座や銀座が伏見から移転してきたのは慶長(1596〜1615)なので、両替町の名がついたのはそれ以降であろう。金座・銀座転入前の名称は不詳。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通した。由来はこの通り沿いに諏訪神社があることによる。この通りを北方に延長すると両替町通になる。


平安京の室町小路にあたる。名前の由来は諸説があってはっきりしない。永和4(1378)年、足利義満が烏丸小路−室町小路−持明院通−北小路に囲まれた地域に「花の御所」とよばれる新第を造営したことから室町時代と呼ばれるようになった。この時期、この通り沿いには多数の裕福な商人が軒を連ねた。応仁・文明の乱以降もいち早く復興した。京都の人の中には「もろまち」と読む人もいる。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開かれた。三条上ルあたりに袈裟や法衣を売る店が多かったことより衣店通と言っていたのがいつの間にか衣棚通と名前が変わった。


平安京の町尻小路にあたる。平安時代、この通りにそって修理職町という宮中の修理事業を司る工人の町があった。その通りの北側を町口、南側を町尻と言ったことから町尻小路や町小路といわれるようになった。
いつ頃から新町通と呼ばれるようになったかは不明だが、豊臣秀吉の京都市街地改造後であろう。この通り沿いに次々と建物が建つので新町通という俗称がついた、というのがはじまりのようだ。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通した。由来はこの通り沿いに若宮八幡宮があることによる。この通りを北方に延長すると釜座通になる。元禄時代から天保時代にかけて、仏具を作る家が多かったので仏具屋町通という衣装もあった。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通した。由来は釜座が三条通付近にあったことによる。釜座は鎌倉時代には存在していたので開通寺から釜座通の名前が定着していたと思われる。読みは「かまのざ」の音便形である。新町通と西洞院通の間を突き抜けたことから「釜座突抜通」と呼ばれていた。開通当初は釜座通を延長した位置にある若宮通も釜座通と呼ばれていた。


平安京の西洞院大路にあたる。由来は東洞院通と一緒で洞院川があったから。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。「こかわ」「こがわ」とも称す。この通りの上立売-一条の西側に堀川に流れ込む小川が流れていた事による。仏光寺-木津屋橋間は天使突抜通とよばれる。こちらは松原通の南にある五条天神社(天使堂)を突き抜けたことによる。六条以南は東中筋とも呼ばれる。


平安京の油小路にあたる。豊臣秀吉は市街地改造の際、この通りをもって洛中と洛外を分けた。江戸時代は伏見地域への通路として栄えた。JR線以南は堀川通が合流してくる。


醒ヶ井通(さめがいどおり)  六角通−松原通  蛸薬師通−錦小路通で中断
六条通以南で再開するが花屋町通以南は堀川通の東側の歩道にあたる
堀川通と油小路通の間の突抜路。三条通以北では武家屋敷が多かったので、この通りは洛中南部のみ開通した。六角通−蛸薬師通間は越後突抜ともいう。六条堀川付近には平安末期、源氏の屋敷があり、その邸内にあった佐女牛井(さめがい)という名水があり、これが名前の由来である。かつて錦小路通以南を和泉殿突抜とも称したが、これは蛸薬師通と錦小路通の間に伊勢の藤堂和泉守の屋敷があったことにちなむ。




平安京の堀川小路にあたる。堀川(幅4丈・12m)の両側に2丈の堀川小路が通された。二条城前の二条堀川土橋は京から諸国への道路の起点であった。堀川は埋川・芥川といった別名も見られた。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。二条城築城のために丸太町-御池間が閉塞した。名称の由来は不詳。御池以南では岩上通という。こちらの由来は六角下ルに岩上社があったため。


平安京の猪隈小路にあたる。由来はこの通り沿いに住んでいた藤原基実の猪隈殿という別名による。今出川通以北は北猪熊通とも呼ばれた。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。由来は聚楽第の鉄門より。二条以南は新シ町通・丹波屋町通、四条付近は西納屋通、四条・松原付近では御太刀松通・竹屋町通と、さまざまな別称がある。


平安京の東大宮大路にあたる。由来は大内裏の東面に接するため。二条城と京都所司代のため、丸太町通-押小路通間が閉塞した。上立売通−元誓願寺通間は高級絹織物地帯の西陣である。この名前は応仁の乱の西軍本陣がこの辺にあったからである。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。松原通以南は一貫町通という。


神泉苑の前から南下する通り。開通時期は不明だが、天正14(1586)年、豊臣秀吉が聚楽第を建設した際にはすでに境域内にこの通りが開いていた。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。聚楽第の正門付近を通っており、この正門が非常に素晴らしく、人々が日が暮れるまでその門を見ていたことにより名がついた。松原通以南は櫛笥通である。


平安京の壬生大路にあたる。右京衰退後は寂れた。だが室町時代以降は地域名として定着。現在「壬生」と呼ばれているのは三条通・大宮通・松原通・西大路通に囲まれた地域である。九条通以南は国道1号につながっている。壬生川通ともいう。


平安京の坊城小路にあたる。朱雀大路の1筋東にあった。坊城とは京内の坊ごとに周囲を囲む垣のことをいう。平安京では朱雀大路に面する両京の一坊にのみ坊城が作られた。ちなみにこの坊城には門が開かれて坊門といい、平安京では朱雀大路の坊門ごとに2人の兵士をおいて守らせた。この通り沿いは平安時代前期は栄えたが、中期以降の右京衰退とそれに伴う朱雀大路の荒廃によって徐々に衰退していった。鎌倉時代以降は道路としての機能を果たせず、現在の坊城通は明治以降の市街地の拡大によって新しく作られた道路である。松原通以南は道路が途切れ途切れにしか存在していない。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。この通り沿いにある智恵光院から名がついた。聖天堂通ともいう。


元和元(1615)年の開通。由来はこの通り沿いに聚楽第の裏門があったことによる。智恵光院通の西側にある細い通りである。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。笹屋町通下ルにある浄福寺から名がついた。


江戸時代に開通した通り。由来は不明。幕末期には上長者町通から一条通の少し上にある浄福寺の近くまで伸びていたが、現在はなく、やや西に屈折して続く道があるだけである。


平安京の朱雀大路にあたる。平安京開設当初は幅約85メートルの平安京最大の通りであったが、早くから畑地化が進み、右京衰退ともに都の西辺の道路となった。大内裏の裏にある葬送地、蓮台野への道でもあったため、道路沿いに1000本の卒塔婆がったことから千本通の名がついた。四条以南は細い道である。


江戸時代から見られる。由来は不明。旧二条通からJR二条駅前にかけての道は六件町通に含めないこともある。ちなみにこちらは平安京の西坊城小路にあたる。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。この通り沿いに一株から7本の枝に分かれた松があったことから名がついた。


藍屋辻子通・相合(あいあい)辻子通ともいう。下ノ森とは北野天満宮の門前で、天満宮の社領地のことである。近代初期から遊郭となり、栄えた。


平安京の西大宮大路にあたる。御前の名の由来は北野天満宮の正面門前から道路が始まっていることによる。この名は江戸時代以降の文献に見られる。右京衰退後も北の天満宮の近くは商業地域として栄えた。名も経緯も天満宮様様の道路である。


都市計画によってつくられた道路。大正11年着工。昭和14年に南は九条通まで完成した。昭和18年に市電が通り、全通した。


佐井通(さいどおり)  わら天神の西−西大路駅前
佐井東通(さいひがしどおり)  四条通−西大路駅の北側
佐井西通(さいにしどおり)  下立売通−御池通・三条通−七条通
平安京の道祖(さい)大路にあたる。近代以降、市街地の拡大によって整備された道路であるが、もともと西京から御土居の西辺を通って、西院村から御所内村へ至る農道を踏襲したものである。細井大路・佐比小路の別称もある。


一条通の北で屈折しており、一条通以南は平安京の馬代小路にあたる。由来は「和名抄」にある葛野郡綿代郷による。明治時代は農道程度の道幅しかなかった。

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