よくわかる北海道史のコーナー
北海道の歴史についてきちんと理解をしている人はなかなか少ないと思います。そこで、このコーナーでは有史以来の北海道の歴史について簡単に紹介していきたいと考えています。
(1)先史時代の北海道
北海道に人類が最初に住んだのは数万年前の氷河時代といわれ、本州と同じく旧石器時代を経て縄文時代に移行している。北海道の縄文遺跡で特徴的なのはストーンサークルで、これは墓地と考えられている。その後、本州以南では水稲栽培が開始され弥生時代に移行するが、北海道には水田稲作が伝播せず、引き続き縄文時代と同様の生活様式が営まれた。この時代のことを本州の弥生時代と区別して「続縄文時代」と呼んでいる。続縄文時代後期に当たる5世紀頃、樺太から北海道のオホーツク海沿岸にかけての地域では「オホーツク文化」と呼ばれる異質な文化が栄えた。オホーツク文化については詳しい様相ははっきりしていないが、海獣狩猟に重点が置かれ、熊が重要視されるなど北方民族の影響を強く見ることができ、のちにアイヌ文化が形成される上で重要な基礎になったことは確かであろうといわれている。
続縄文時代は6世紀後半以降、しだいに「擦文時代」に移行していく。擦文式土器とは、表面にハケで擦ったような文様がある土器のことで、これは同時代の本州の土師器からの強い影響が窺えよう。擦文文化は12世紀頃までにはオホーツク文化を吸収し、13世紀頃までにアイヌ文化に移行したと考えられている。
<北海道の時代区分> |
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北海道 |
先土器 |
縄文 |
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オホーツク文化 |
アイヌ文化 |
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続縄文 |
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擦文 |
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本州 |
先土器 |
縄文 |
弥生 |
古墳 |
歴史 |
(2)アイヌ文化の成立
アイヌ文化が成立したのは13世紀頃といわれているが、それ以前の奈良時代頃から『古事記』や『日本書紀』には大和朝廷に服従しない人々として「蝦夷(エミシ)」とか「まつろはぬひとども」といった記述が見られる。これらの人々がアイヌの人びとを指しているのかどうかは現在でも議論の分かれるところであるが、東北地方とくに来た東北の各地にアイヌ語起源の地名が数多く見られることから、この人々のなかにアイヌ語を話す人びとが含まれていたことは間違いないと思われる。やがて平安末期になると「蝦夷」は「エゾ」と呼ばれるようになり、これはアイヌの人びとのことを指すといわれている。アイヌ文化は、基本的には擦文文化を継承しつつ、オホーツク文化と融合して成立したと考えられているが、アイヌ文化では、擦文文化では見られない熊送り(イオマンテ)が重要視されており、熊を重要視する世界観はオホーツク文化には存在したことから、熊送りはオホーツク文化に起源があるものと考えられている。
(3)和人の移住と中世の蝦夷地
蝦夷地に和人が最初に移住したのは12世紀頃(平安末期〜鎌倉初期)のことであった。彼らは戦いに敗れた武士・犯罪者・あるいは一般の漁民であり、南部沿岸地域に和人社会を形成した。鎌倉時代には蝦夷管領(えぞかんれい)が置かれたとされ、執権北条義時の代官として東北北部に勢力を振るっていた安藤氏(15世紀以降、安東氏と称す)が蝦夷を支配する権限を与えられていた。当時の蝦夷地には日の本・唐子(からこ)・渡党(わたりとう)の3集団が居住しており、このうち日の本・唐子がアイヌ民族、渡党が和人に属していたとされている(『諏訪大明神絵詞』、1356年)。15世紀頃になると、道南の和人小豪族の中には交易で力を伸ばし、沿岸に館(たて)を築いて館主に成長するものも現れた。
このように和人の勢力が増大すると、先住民であるアイヌ民族との間に摩擦が生じてくるようになる。その中でも最大の戦いが1457年のコシャマインの戦いであった。この戦いでコシャマインを討った武田信広は、のちに花沢館の館主であった蠣崎(かきざき)氏の養子となった。蠣崎氏は1514年に根拠地を松前に移し、しだいに安東氏に代わって台頭するようになっていった。
(4)松前藩時代
1593年、蠣崎慶広(よしひろ)は豊臣秀吉から独立の蝦夷島主と認める朱印状を与えられ、1599年に姓を松前と改めた。1604年には徳川家康から黒印状が与えられ、ここに松前藩が成立し、アイヌ民族との交易は松前藩の管理下におかれることとなった。松前藩は他藩と異なり年貢米を徴収できなかったので、アイヌ民族との交易を独占して藩財政を強化するために、アイヌ民族と和人の居住地を明確に分離することにした。両地域の境界に関所を設置して相互の往来を厳しく制限し、和人が自由に蝦夷地に出かけて交易することも、アイヌ民族が自由に松前や東北地方に出かけて交易することも禁止された。こうして蝦夷島は和人地(松前地)と蝦夷地に二分されることとなった(のちに西蝦夷地と東蝦夷地に区分)。こうした松前藩のアイヌ支配強化に対して起きたのが1669年のシャクシャインの戦いである。
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江戸時代の蝦夷地(和人地は1800年に山越内まで拡大) |
松前藩は、直接アイヌ民族と交易を行なったほか、家臣たちに知行地(領地)に代わるものとして、商場(あきないば)と呼ばれる限られた土地でアイヌ民族との交易権を与えた(商場知行地制)。商場知行地制は18世紀に入ると、商人が藩主に運上金を納めて交易や漁業経営を請け負う場所請負制(ばしょうけおいせい)に移行するようになった。場所請負人は各場所に運上屋(うんじょうや)を設け場所の経営にあたったが、アイヌの人々は不当な交換レートや漁場での強制労働・運上屋近くへの強制移住・出稼ぎの強制などの搾取を受けることとなった。1789年に起きたメナシ・クナシリの戦いは、和人に対するアイヌ民族最後の組織的な戦いとなった。
(5)ロシアの南下と蝦夷地
18世紀後半になると、1792年のラクスマン根室来航など、ロシアの南下政策に伴い北方問題がにわかに緊迫化しはじめた。このため江戸幕府は蝦夷地の開拓事業に着手することとし、1799年に東蝦夷地を、次いで1807年には和人地・西蝦夷地も幕府直轄地としたが、開拓事業は大きな成果は上がらず、1811年のゴローニン事件の後はロシア船の来航もなく日露関係の緊張も緩んだので、1821年に幕府は蝦夷地直轄支配をやめて陸奥国梁川に転封されていた松前氏に蝦夷地の支配権を返還した。
しかし、幕末になると黒船来航など国際関係が再び緊迫化してきたので、1854年に幕府は箱館(現・函館)開港を決定し、箱館近辺を松前藩から上知させ箱館奉行を置いた。翌1855年、幕府は全蝦夷地を再直轄化し、松前藩の領地は松前近隣のみに縮小された。また、ロシア南下防衛のため、松前藩のほか仙台・南部・津軽・秋田・会津・庄内の各藩に東西蝦夷地および北蝦夷地(サハリン)を分担警備させることとした。
(6)移民の募集と人口の増加
1867年、大政奉還の後、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いにはじまる戊辰戦争が旧幕府軍と新政府軍との間で行なわれ、旧幕府軍は1869年5月の五稜郭の戦いを最後に旧幕府軍は鎮圧された。その後、同年7月に開拓使が発足し、8月には蝦夷地は北海道と改称され、札幌が北海道の中心と定められることとなった。開拓使は積極的に移民を募集して北海道の開拓を進めることにしたが、明治初期には北海道側のインフラ整備もまだ不十分であったため一般の移民はまだまだ少なく、幕末維新の混乱で失業し、生活に困窮して移住を余儀なくされた士族を中心とする、いわゆる士族移民が主力であった。しかし、1880年代の松方デフレ政策で生活に困窮する零細農民が急増したことや、1890年前後には十津川村大水害(1889年)や濃尾地震(1891年)・明治三陸地震(1896年)などの災害が頻発したこともあり、これ以降北海道に移住する農民は激増している。とくに1893年以降は毎年5万人前後の人口増加率を示し、北海道は急速な発展を遂げていった。
<まとめ>
↓ 渡嶋(わたりしま)・越渡嶋(こしのわたりしま) (『日本書紀』)
↓ 蝦夷ヶ千島(えぞがちしま、平安末期)
↓ 夷島(えぞがしま、鎌倉時代)
↓ 安藤(安東)氏
↓ 松前藩時代 (蝦夷島=和人地+蝦夷地。 のち和人地+東蝦夷地+西蝦夷地)
↓ 第一次幕府直轄時代 (東西蝦夷地を幕府が直轄支配)
↓ 松前藩復領時代
↓ 第二次幕府直轄時代 (箱館奉行設置、松前藩と奥羽六藩による分領)
↓ 戊辰戦争、開拓使発足、北海道と改称
<参考文献>
海保嶺夫
1979 『近世の北海道』 教育社(教育者歴史新書)
1987 『中世の蝦夷地』 吉川弘文館
1996 『エゾ地の歴史 北の人びとと「日本」』 講談社(講談社選書メチエ)
北海道編
1981 『新北海道史 第一巻 概説』 北海道庁
北海道開拓記念館編
2002 『蝦夷地のころ』 北海道開拓記念館